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   一番ゴ(最初の田の草取り)

 一番ゴは、7月の半ば頃に行われた。この頃はまだ稲の丈も短く2番ゴ、3番ゴに比べれば作業は容易であった。 

手押し除草機

 とはいうものの雨の中、油紙を張ったゴザミノを背につけて山笠をかぶり、田の中を這うようにして行う作業は、決して楽なものとは言えない。
 一番ゴは、うまく根付かない稲を植え替えたり、稲の根の部分にある古株を取り除いたり、根の周囲をかき回してやったりと、いわば除草よりも稲の根の発育促進を目的とした仕事であった。

 戦後、手押しの除草機(左写真)が普及した。単純な構造であったが、効率がよく当時としては画期的な農機具であった。筆者も使用した経験があるが、腰を曲げての手取り作業に比べたら楽なものであった。

 
 ウツギの花ホトトギスの鳴き声

 棚田の畔に卯の花が咲き、ホトトギスの鳴き声がしきりに聞こえる中での「田の草取り」を今も懐かしく思い出す人もいるだろう。

資料→田の草取り
資料→畜力除草機
ビデオ資料→昔の田の草取り
ビデオ資料→昔ながらの田の草取りを見ての感想



          
        田まわり

 田回りは、チャメェ仕事(朝飯前にする仕事)でするのが普通であった。
 田植えが済んだ頃は、夜明けも早く3時半にもなると東の空が白々してくる。四時頃起きてウグイスの鳴き声を耳にしながら山道を歩いて田んぼへ行くのは爽快であった。
 畔に立つと昨日より一段と田が緑を濃くしている事が、またうれしかった。

 こうして、1枚1枚の田を巡り、生育や水具合、病虫害の有無を調べる。
 稲の育ちが順調であれば、畔でふかすタバコの味もまた格別であった。
 昔から、作物には「目の肥やし」が大切と言われてきたが、こまめに見てやるということは、除草や施肥、消毒、灌水等が適切にできるということであり、今日でも正に金言というべきであろう。
資料→小さな田
        



 
         
       畔 草 取 り

 一番ゴが終わる頃には、田の稲もしっかりと根付いてぐんぐん生長するが、畔の雑草はもっと生長が早い。一番ゴの次はアゼ草取りが待っている。
 小鎌をつかって、畔豆を切らないように念入りに雑草を根から取り去った。豆が3本生えたところは2本だてにし、抜き取った1本は生えない場所に植えた。
 畔草取りは子供の夏休みの主な手伝いであったが、根気のいる作業である上に、仕事の成果は一目瞭然でごまかしのきかない仕事であったため、子供には嫌がられた手伝いであった。

 
 畔の草

 朝の涼しいうちに出かけて仕事をしたが、9時にもなると夏の太陽は容赦なく照りつけた。小鎌を使って畔豆が隠れるほどに繁茂したカヤツリグサヤマイなどを根っこから取り除く作業は子どもには容易な仕事ではなかった。
 あぜ草取りは、あぜ豆の生長のためばかりではなく、安心して裸足であぜを歩けるようどこの家でも3〜4回は行った。
資料→畔草取りの思い出


          
       春 蚕

 7月の初め、農協から孵化寸前のサンランシ(蚕卵紙)が届き、孵化すると羽ぼうきでケゴを落とし浅い箱の中で、細かく刻んだ柔らかな桑の葉(先から4〜5葉目)を与えて育てた。この作業を「ハキタテ」と言った。

カイコ

 桑は、畑や田の周りに植えておく家が多かった。雨にぬれた桑は家の中に縄を張ってつり下げて水気をきってから与えた。(現在の飼育法では問題にしないようだ)(補記−養蚕1)
一定の大きさまで生長した蚕は下の写真のような棚を作って「カイコノワク」と呼ぶ枠を沢山用意して、その上にコモのようなものを敷いて飼う家が多かった。

 
 回転まぶし-1955ころ (高柳―懐想)

 また、蚕かごに残った桑の枝や糞を取り除く作業も欠くことのできない仕事であった。

 方法は、網〔コデ縄で編んで作った〕をかけて、その上に新しい桑を与える。そしてカイコが餌を食べるために、網の目からはい上がったところで網を持ち上げて、下に残った桑の木や糞を取り除いた。

 4齢にもなると広い場所が必要となり、居間までカイコが独占し家族は座敷の隅で食事をしなければならなかった。
 家じゅうにカイコの臭いが充満し、桑をはむ音がサンサンと小雨の音のように聞こえたものだ。
 5齢の6日頃になると体が少し縮み透き通るようになる。すると、大急ぎでそれらを拾い分けて、その上にマブシを置くとそれにはい上がり4、5日で繭を作った。
  マブシとは、繭を作らせるために、機械でワラを幾重にも折った物や一定の加工をしたもの(下写真)であるが、後に回転マブシが使われるようになった。

 この体の透き通った蚕を拾い分ける仕事は、待ったなしの作業で子どもを学校から早退きさせて手伝わせるほどであった。

回転まぶし

 繭を作り始めてから1週間ほどたつとマブシから繭をはずした。これを「マユカキ」と呼んだ。マユカキでは2匹の蛹の入った玉マユや汚れのある繭などを拾い分けた。
 さらに、出荷前には繭の毛羽取りが必要であった。手回しの毛羽取機(下写真)は、右手でハンドルを回し左手で繭を送るとゴムロールに毛羽が巻き取られる仕組みだった。毛羽取機は数軒が共同で使った。

マユの毛羽とり機

 玉繭は、簡単な器具を使って真綿(下写真)にして布団作りなどで使った。

 選りすぐった繭は、大きな木箱に入れて背負って岡野町まで売りに行った。値段は、その繭の品質よって決められた。特に品質の良い繭には賞状が与えられた。→資料→繭品質優良賞状

真綿とり(マユ市−岡野農協−1955)

 昭和20〜30年代前半にかけては最も養蚕が盛んなころであり、農協に繭が集められる出荷日は一週間にもわたり、連日岡野町商店街では大売出しが行われ祭りさながらの賑わいであった。
 子どもたちは、繭の出荷日に親たちがモモやサクランボをお土産に買って帰るのを朝から楽しみにしていたものだった。

 また、カイコのことを石黒では「ぼぼさま」と呼んだ。(民間信仰によるもので各地に「おこさま」「お姫様」など様々な呼び方があるという)
 またカイコは、ひとたび病気にかかると治療することは難しいと
言われた。そのため飼育場所を消毒するなど清潔には留意したが、まれには病気で全滅する年もあった。桑の葉に付着した病原菌が原因といわれたが、4齢ほどに成長した蚕をバケツで川に棄てるのは実に忍びなかった。
 養蚕は、短期間で現金収入となるため、昭和になると村の半数近くの家で行われた。桑畑のほかに田のクロなどにも桑の木を植えておいた。春蚕と秋蚕の収入を合わせると村の予算の数倍に達することもあった。(高柳町史によれば、昭和4年の高柳村全体の繭生産額は15万円、それに比して村予算は5万円である)
参照 昭和5年石黒村歳出入予算書→クリック
 しかし、このように盛んであった養蚕も昭和35年以降は経済の高度成長によってもたらされた過疎化とともに衰退し、繭の出荷量は急速に減少した。更にその後、発展途上国から低価格の繭が輸入されるようになり、高柳町の養蚕業は昭和50年代後半には幕を閉じた。

資料→カイコの思い出
資料→真綿取り
資料→高柳町稚蚕共同飼育状況(グラフ)
資料→高柳の養蚕業とその施策

資料→カイコのアミと枠




   
 刈り草刈り・刈草寄せ・刈草積み

 7月半ばになると、どこの家でも堆肥用の草刈りが行われた。
 石黒ではこの作業を「カリグサカリ」と呼んだ。刈り草にはカヤ(ススキ)やチガヤなど繊維の粗い植物が最上であった。

大鎌

 梅雨明けの蒸し暑い頃、急傾斜地で大鎌(写真)を振り回して草を刈る仕事は骨が折れた。
 その上、草むらに巣をかけているアシナガバチスズメバチの襲撃をうけることもしばしばあった。また、マムシが多く生息している石黒ではカリグサカリで、2〜3匹は毎年捕らえたものだ。
 刈った草はその場で1週間ほど干してから一カ所に集めた。これを「ホシグサヨセ」と呼んだ。

 炎天下での干し草寄せはつらい仕事だ。
 灼熱の太陽の下、急斜面に広がっている干し草を大束にまとめて、傾斜を転がし落としたり、肩に担いで運んだりして集めなければならない。時には日陰に逃げ込みたい思いに駆られることもあった。

 こうして寄せ集められた刈草は、雨が降ってしめった頃を見はからってウマイゴ(馬小屋の敷きワラで作った堆肥)などを間に入れて積み上げられる。そして、翌春には良質の堆肥となり、田かきの前にソイカゴで運び、田の中に敷き込まれた。    
 また、牛馬を飼っていない家では、サイキ〔ケナシミヤマシシウド〕を刈り取って、家に背負って運び、押し切りで細かく切って藁で囲って発酵させて堆肥を作ることもあった。
資料→堆肥用草刈りと草刈り
資料→干し草刈りの思い出



     
      干し草刈り・かり干し刈り
 
 干し草は、主に牛馬の冬場の飼料用と、燃料用ものがあり、7月の内に比較的柔らかい若草を刈り取り乾かして作った。(この時期に刈ると乾燥しても色も良く葉も落ちなかった。また、穂の出る前のカヤは、特に牛馬が好んで食べたという。)乾いたら束ねて天井裏に保管し、冬季に干し草の茎の上部は牛馬の飼料とし、下部は燃料にした。
 その他に、「かり干し刈り」が行われたが、これは燃料用の刈草でありリョウブマンサクホツツジなどその場所に生えている低木も混ぜて刈り取った。低木が多く混じるほど良い刈り干しとされた。毎年刈り取るので低木も1m前後で草と同じくらいの丈であった。
 乾燥すると、それらを一緒にしてネジキや古いハサ縄などを使って束ねた。ナタ鎌を使って低木の根元深くを切り取ることで、翌春の健全な発芽を促した。
 石黒に多く自生するヤマハギケハギは、燃料としても飼料としても適していたので好んで干し草に使われた。
 干したカリボシを集めて束ねる作業を「かりぼしまくり」と呼んだ。
(補記-草刈)
資料→刈り干し刈り




        
         稲 の 予 防

 戦後、しばらくしてから(1952年頃)BHCなどの強力な殺虫剤やイモチ病予防の有機水銀剤などが農薬として使われれるようになった。

動力噴霧器による稲の予防

 石黒でも共同で動力噴霧器を購入してさかんに散布が行われた。それらの農薬の効能は驚くほど優れたものであった。
 しかし、当時はまだ、農薬の残留による毒性が明らかにされていなかったため、ろくな防具もしないで散布する者も多かった
〔筆者もその一人であったが・・〕

資料→稲の予防
資料→農薬散布の思い出



        
      二 番 ゴ

 二番ゴの草取りは、梅雨明け炎天下での作業となる。その頃になると、稲の草丈も伸びるため、鋭い葉先から目を守るための細かい網のお面(下写真)をつけて作業をした。

 しかし、まつわりつくブトやアブに悩まされたばかりか、時には、暑さを避けて田の中に入っているマムシに咬まれることもあった。

田の草取りの面

 また、当時は田の中にヘロ(血吸いビル)が多くいたので田に入る時はモモヒキの上から足首をワラで縛って侵入を防いだ。ヒルは吸盤で吸い付き血を吸う。痛みがないため田から上がってから、すねに付いているヒルに気がつくという事が多かった。 また、ヒルは血液を凝固させない物質を出すので取り去った後も血がなかなか止まらなかった。

田ヒル(伸びると長く細い)

 炎天下、成長した稲をかき分けるようにして泥をかき回しながらはいずり回る草取り作業は、除草剤に頼る今日では、想像もつかない過酷な仕事である。
 田の主な雑草は、ナギオモダカイボクサ等であり、引き抜いたこれらの雑草は泥の中に深く埋めた。
 二番ゴは7月半ばから8月半ばに行われたが、そろそろ穂の出る頃であり、この頃の草取りが止め草(最後に行う除草)となる。出穂の頃に草取りをして稲の根を傷めると実りに影響したからである。そのため、三番ゴまで取る場合は短い間隔で取り、この頃までには終えるようにした。
資料→田休みと二番ゴ



       
      ヘイ(ヒエ)拾い

 水田に生えるヒエの多くは、ケイヌビエとよぶヒエでヒエ類の中でも最も稲に似ている。そのため田の草とりの時に取り残すことも多い。

田のヒエ

 8月になると稲よりも丈が高くなり円錐状の穂をつけるために簡単に見分けがつく。ヒエ拾いは水田に入ってこのヒエを1本1本取りのぞく根気仕事であった。
 ヒエには、稲株から離れて生えているものと稲株と一緒に生えているものがある。前者は取り除きやすいが、後者は稲株から分けて取るので手間がかかった。抜き取ったヒエは種子が飛び散らないよう留意して捨てた。
資料→ヒエ取り



        
       ソ バ ま き
 
 ソバは、山間の寒冷地に適し、「まいてから75日」と言われるように、短期間で収穫できる穀物である。

 耕地の少ない石黒では、ソバは昔から凶作に備えての貴重な作物として、主にカンノ〔補記−カンノ1〕で栽培された。その上、ソバは、種まきの後は手が掛からないばかりか、肥料も特にいらない作物であったため、多くの家で栽培された。
 当時は、カンノはどこの集落でも盛んに行われ、場所の良いところを早い内に見つけて、周囲を囲むように草をなぎ倒して置いて、場所を前もって占有することも行われた。これを「カッパを敷く」と呼んだという。補記−カンノ2
 カンノは、山の斜面の一定の場所を決めて、草をなぎ倒して行なった。そして、5〜6日おいて乾燥させたところで、刈り草のまわりの枯草を幅2mほど内側に寄せて防火帯を作った。そして、夏の日中をさけて、夕方近くなってから斜面上部から火をつけ、2、3人が火の下側について平均に燃え下がるように火加減をした。火の勢いが強い時には手前の草を広げて均一にするなど、最後まで火加減に気をくばって完全に燃え終るのを見届けた。その後、雨で灰が流れる前に鍬で軽く耕しながらソバなどの種まきをした。
 ソバまきは土用を目安として行われた。
資料→カンノ焼きの思い出
資料→作場おおぬげの思い出

資料→ソバ作り



    
   大根、白菜・カンランまき

 大根・白菜・カンランは、お盆が終わると種まきが行われたが、種まきした後、なかなか雨が降らず、何度もまき直しをしなければならないこともあった。

 どこの家にも屋敷近くに4、5畝ほどの畑があり、これを石黒では、「センゼェ」(前栽)と呼んだ。
 ここには、日常の食材として使われるナス、キュウリ、トマト、
トウナなどが作られた。
 大根、白菜、カンランなど、越冬用の野菜の大半は、家から遠く離れた畑(ヤマ畑)で栽培された。
 大根、白菜、カンランは、雪に閉じこめられる長い冬の貴重な食材であったため、どこの家でも栽培した。
 この頃の野菜づくりには、下肥(人糞尿)が多く使われた。下肥は便所のサンジャクモンから直接汲み上げ、ソイ桶で背に担いで畑に運んだ。(下写真)

下肥〔人糞〕運び

 当時、化学肥料はキンピ(金肥)と呼ばれるほど高価であったため、使われる量は少なく下肥や堆肥が中心に使われた。しかし、このことが寄生虫の保有率(7〜8割)を高めた。とくに菜類、とりわけ漬け物が回虫などを媒介した。
資料→夏休みの思い出
資料→背負いカゴ−民具補説
資料→背負い桶の背負い方−民具補説



     
     田 堀 り(新田開発)

 田堀りは、7月下旬から9月の十五夜祭りまでに行われることが多かった。〔農閑期であることのみならず、この頃の土の乾き具合が田堀に適していた〕ウチニンソク(家族)で行う家もあったが、大抵はトウド(手伝い)を頼んで行った。中には、屈強なトウドニンソクを7、8人頼んでモッコ(写真)の2人組を数組、土の堀り手、積み手というように仕事を分担して効率よく行う家もあった。また、集落によっては田堀のための組合をつくり協力して行った
→下石黒土地開発組合規則
 田堀用のモッコは、よく叩いた藁で縒りの強い左縄を手で綯い、それを使って編んだ。

モッコ

 左縄は、ほぐれにくく丈夫であったからだ。田堀りをする年には、このモッコを20〜30枚は作ったものだという。
 土を入れたモッコは棒〔桐の木〕をとおして二人で担いで運んだ。目的の場所まで運ぶと一人が先に肩から棒を下ろし、二人でモッコの端を持ち上げて土を空けた。
 田堀では、畔づくりから始め、1mほどの幅の畔を作り大型のアゼシメで十分叩いて水漏れしないようにする。
 畔づくりが終わるとその年は冬の雪で押ししめて、翌年に耕して水を引き入れて「土嚢かき」をする。土嚢かきでは、土嚢を引っ張る数人と土嚢を下に押しつける人で組になり田の平面の土を泥状にして水漏れのないようにした。
 田堀り専用の鍬もあった。ヒラグワの大型のもので子どもには持てないほどの重量〔約4kg〕があった。
石黒では「土方鍬」などと呼んだ。

土方鍬〔田堀り鍬〕

 田堀にはこの鍬一丁あればすべての作業ができると言われた。土を掘ってモッコの中に入れる、鍬を横にして掘った土を引くようにして動かす、ならすなど自由自在であったからだ。だが、普通の田仕事や畑仕事には重すぎて使えなかったという。
 山坂で平地が少ないうえに用水に恵まれない石黒での新田開発は生易しいものではなかった。
 今日、すでに原野に戻ってしまった昔の田の跡に立ってみると、そのことがよくわかる。7月の半ば、橋もない〔川には橋はなく水の中を歩いて渡った。昔は、ひざ上ほどの川の水

山の斜面に掘られた田(大野地内)

かさは苦にしなかったものだという〕石黒川を隔てた城山の山ひだにある田の跡を訪ねてみると未だカヤゴミに覆われた残雪があり、その周りにはウドの若芽が見られる。この雪解け水を頼りに田を掘ったものであろう。
 それにしてもこのようなところで稲穂に実が入ったことが信じ難いことに思われる。
 また、石黒は県下でも有数の地滑り地帯にあるため、地滑りによって壊された田の掘り直しも少なくなかった。中には、一代で同じ場所の田を3回も掘り直しすることもあったという。
資料→田堀の様子の思い出
資料→新田つくりと畔しめ・畔塗り
資料→昔の暗渠排
資料→モッコの作り方と寸法


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