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    アゼぬり・アゼ豆つけ

 アゼ塗りをする前にアゼの内側をカケヤで叩いて締める。この作業はモグラの穴などによる水漏れを防ぐための作業で「アゼシメ」と呼んだ。
 また、崩れやすい場所はアゼシメと呼ぶ下の写真のような農具で叩いてしめた。天水田〔用水が乏しく雨に頼る田〕の多い石黒では畔からの水漏れ防止には万全を期した。

 
        あぜしめ

 アゼ塗りは、ひらぐわ(木部に金属の歯が付いた鍬)を使い、アゼぎわの古株を鍬ですくい上げ、放るようにしてアゼに張り付け、鍬の前面をコテのように使って平らに仕上げた。(写真)

 一見、職人芸を想わせる軽快な手さばきでリズミカルに行われる作業だが、実際にやってみると大変きつい仕事である。
 アゼ塗りが終わると、アゼの中央に棒で30cm間隔に穴を開け、その中に大豆を2、3粒入れてクンタンを少し入れた。この作業を「アゼマメツケ」と呼んだ。
 せっかくまいた豆をドテッポ(キジバト)や害虫に喰われることもあったが、芽が出ない所は種を再度入れて、ほとんどの田のアゼに大豆を栽培した。田のアゼは養分と水分に恵まれているため除草さえ怠らなければ見事な大豆が育った。
 アゼ豆だけで1俵以上収穫する家も珍しくなかった。
資料→新田つくりと畔しめ
ビディオ資料→あぜぬり2008.10.16大橋和平さん
資料→ヘッタ鍬について

資料→現代の畔塗りと昔の畔塗り

    
  田打ち・こやしまき・田こぎり

 田打ちには、主にマンノウグワ(万能鍬・写真)が使われた。三本鍬も使われが、マンノウグワに比べ歯幅が狭いため効率が悪い上に、柄が短いために前かがみの作業となり腰に無理がかかった。

 田打ちは、中腰での作業が続くため大変過酷な仕事であった。主に男の仕事であったが屈強の男でも1日に10アールが限界であった。
 田打ちが終わると堆肥や人糞などの肥料をまいた。糞尿はこやし桶で田の中に運び込みシャク(柄杓)でまき散らした。ウマゴエ(馬の敷き藁で作った堆肥)や馬糞尿、人糞尿は背負いカゴや肥やし桶で運んだ。背負いカゴで運ぶときには田の中まで背負い込んで前屈みになってカゴの中の堆肥をふり落とした。その折、時には堆肥が襟元に入ることもあったことを覚えている。また、堆肥は、特殊の補助具を馬荷鞍に取り付けて運ぶ家もあった。
資料馬の荷倉の補助具−堆肥用・肥え桶用−民具補説
 次の作業の田コギリ(砕土)も打ちおこした土を細かくする仕事で、田かきの前には欠かせない仕事であった。特に古株の部分を細かく砕くことが大切であった。
 田コギリは、田に水をはっておいて平鍬を使ってするので、泥水が手前にはねるため泥水よけにヒロロの腰ミノをつけて行なった。数人で行うときには調子を合わせてしたものだという
資料→田打ちと田こぎり


         
     大豆、小豆まき

 田打ちとアゼ塗りが終わると畑の豆まきをした。 畑に豆を蒔くことを「豆ヘネリ」(ひねるような指先きで2、3粒を拡げるように蒔く動作から)と呼んだ。
 大豆は、味噌、豆腐、煮豆、打ち豆など用途が多く、どこの家でも熱心に栽培した。
 中には、何百キロも販売する家もあった。大野集落では、入山の中腹に広大な豆畑を開墾して数十俵もの大豆を収穫する家があったと聞く。板畑でもカンノで小豆8表も収穫する家もあったという。
 種類も、普通の大豆の他に黒豆、アオバ、クラカケマメなどいろいろあった。
 小豆や大豆はカンノウ畑(焼き畑)で栽培されることが多かった。カンノウ畑は、夏、雑草を刈り倒し乾いたところで火を放って焼き払い、一般には、最初の年はソバをまき翌年には大豆、というように交互に栽培した。こうして、4、5年すると雑草が生えるなどの原因で作物の育ちが悪くなるので、他の場所に新たにカンノウを起こした。
 カンノウ畑には、大豆に比べノウサギの被害の少ない小豆を蒔く家が多かった。 
 その他、田畑のくろ(外畔ともいい棚田の田間の斜面)にも豆や小豆を栽培するなど土地を無駄なく利用した。
 小豆蒔きは夏至から11日目(半夏生)頃までといわれるが、石黒では、早く蒔くと粒が小さいと言われ、7月の10日頃までを目安にして蒔いた。
 ソバはお盆前までにまけばよいと言われ、田仕事が終わってからまいた。(小豆が日照りなどで発芽しない年は、そこにソバをまいた)
 種をまいたり苗を植えたりする時期は、石黒ではその年の雪消えによって多少左右されたが、昔から八十八夜(5月2日ごろ)後がよいと言われた。
 とはいうものの、豪雪の年には、5月の初旬になっても一面の残雪に覆われていることも珍しくなかった。
(高柳町史によれば、昭和20年は、5月20日に2メートルの残雪があった)
資料→豆や小豆の栽培
 


      田かき

 田かきは、マングワ(写真)を牛馬に曳かせて行った。マングワを持つ人を「シリットリ」、牛馬の鼻につけた2メートル程の棒(軽い桐が多い)を持つ人を「ハナットリ」と呼んだ。ハナットリは、主に子どもの仕事であった。
(「子ども暮らし」参照)
 田かきは、苗の植え付けに備えて田の土を細かくほぐし平らにならす作業である。

 
             マングワ 

 田の土に高低があるとシリットリはマングワ(写真)に体重をかけ、巧みに土を移動させた。(それでも土の高低が残る場合は下写真のような用具を使ってならす)最後はマングワに板を付けて全体をならした。天水田は、水持ちをよくするために特に念入りに田かきをした。牛馬にたよらない家では田打ちの後、起した土を細かく鍬で砕いてから、田ならし具を使って手で田の土を平らにした。(下写真-田ならし)
 当時は耕耘機などなく、牛馬は「田かき馬」「田かき牛」と呼び、春の田ごしらえでは特に重要な

 
     牛による田かき(高柳-懐想) 

役割を果たした。田かき時には、牛馬に豆やコヌカを食べさせて力を付けた。
 馬は、牛に比べ足が速く仕事の能率は上がったが、子どものハナットリなどには、牛の方が扱いやすかった。
 このとき馬の鞍の左右からマングワに引き綱〔馬耕縄→よくたたいた藁でなった三縒り(みつより)左縄〕が掛けられるが、この綱が牛馬の肌と擦れることを防ぐた

 
        田ならし 

シャガの葉を並べて間に挟んだ。家の周りに植えてあるシャガにはそのような使い道があった。ちなみに、その頃がちょうどシャガの開花時期でもある。
 動力耕耘機が使われ出したのは昭和36年頃であり、その後、数年の間に広く普及した。そして、農耕馬は無用となり村から姿を消した。

※馬鍬と鞍のつくり図←クリック
資料→初めて耕耘機を購入した頃の思い出
百姓往来
百姓往来(ビデオ版)




        
    サツマイモ床つくり

 サツマイモの苗床は残雪のあるうちに日当たりの良い場所に作った。

 作り方は、ワラを使って下図のように四角に囲いを作り、中に藁くずや堆肥(主に馬エゴ)や人糞を入れて、よく踏み込み、表面をワラで覆った。冬期に縁の下をふさいだ藁束(ネジワラ)を水に浸して踏み込む家もあった。 

 堆肥の発酵熱は一時的に70度以上の高熱となるが30度くらいに落ち着いたところで種芋を入れる。
 種芋は、あらかじめ別にしてイモキャナ(芋置き穴)に保存しておく。

 1本の種イモから沢山の芽が出て20cmほどに育ったところで切り取って植えた。〔※終戦前後の食料不足の時代には、この苗を取った後の種芋も食用にしたという→「タナガライモ」と呼んだ〕
 当時は、たいていの家では、700から1000本くらいは植えたが1軒で4000本も植える家もあった。
 また、サツマイモ苗を取った後、温床の上に土を敷き込み、ナスやキュウリなどの野菜の苗もそこで育てた。
※このサツマイモ床の中にカブトムシが産卵し、翌年の春に取り壊すと沢の山の幼虫がでできたものである。
 敗戦前後には、巨大な芋「護国」という品種が多くの栽培された。筆者の記憶では球形に近く巨大で白褐色の芋であった。味は、川越や太白に比べて格段に劣った。
 
 
資料→サツマイモつくり



       苗 と り

 苗とりは、田植えの日取りに合わせて行うため、せわしない仕事である。

 15cmほどの苗を一握りほどの束にして、必要なだけとり田植えに備えた。前日にとることが多かったが、その日のチャメェ(朝飯前)にとることもあった。
 また、翌日の田植えの人数が多いときなど苗とりが間に合わず、月明かりで苗取りをしたこともあったものだという。
 苗は、今の機械植えの苗に比べると丈も長く20cmほどあった。苗の根をできるだけ痛めないように両手で抜きとり、水の中で丁寧にゆすって泥を落とす。そして片手で握れる量をワラで束ねた。
 苗取りは主に女衆の仕事であった。女の子は高学年ともなれば一人前に苗とりができた。男の子は、取った苗を運ぶ手伝いをした。
資料→苗取りの手伝いの思いで



           
      枠 転 ば し

 田植えの当日朝早く、植える田に枠を転がし(写真)田植えに備えた。枠転ばしは大抵の家では一家のあるじの仕事であった。石黒では六角枠が主に使われた。

 
             枠ころがし 

 枠転ばしでは、田の水を少なくして縦縄を張りそれに沿って枠を押しつけるようにして転がした。(水を少し田に溜めると泥が枠に付かないので作業がしやすい)当時は、千枚田のような小さな田が多く、枠が入らない田も珍しくはなかった。一軒で50枚以上の田を持っていることは珍しいことではなかった〔全部合わせても1ha以下〕。
 とくに、地すべり地帯の多い石黒では、田の地面に地盤が動き段差がつくと、とりあえず数枚に分けて対処するため田の数が増えてしまう。昭和20年代には下石黒では、100枚余で1反(10a)という、信じがたいほど狭い田があったという。

 資料→田植え前の枠まわし
資料→昔の狭い田(7束刈りの田の書かれた証文)



          
      田 植 え

 田植えは、5月の下旬になってようやく始まり、最後の苗代田の植え付けが終わるのは、6月半ばを過ぎることが多かった。
 どこの家でも6月15日の柏崎のエンマ市までには終了したいという気持ちであったと思われる。とはいえ、当時の田植えは、その年の苗の生長具合に左右されるため6月20日を過ぎることも珍しくなかった。
 大豪雪の昭和20年には7月になっても田植え作業が行なわれていたと語り継がれている。

昭和40年頃の田植え風景

 田植えは、限られた期間にしなければならない仕事であり、お互いにイイ(結い→労働力の貸し借り、賄いなしが普通)やトウド(手伝い)で助け合って仕事を進めた。4、5人の女衆が話に花を咲かせて田植えをする様子には活気があった。話題は卑猥なものが多く、底抜けに明るい笑い声が夕方までとぎれることはなかった。
(地方によっては、苗取りをする時に性に関する話をすると豊作になるという言い伝えがあるそうだから、それに類した俗信があったものかも知れない) 

 
         ホウノキごはん  

苗は、あらかじめ田にばらまいて置いて、足りないところは「コネェブチ」の子どもが投げ渡した。
 最も日の長い頃であり、田植えにはコビリ(小昼)を食べた。
 コビリは、朴の葉を十字に重ねた上に黄粉を敷いてご飯をのせて包んだホウノハマンマ(上写真)と漬け物だった。包みを開けた時の朴と黄粉の香りを今も忘れられない人も多いだろう。

資料→田植えの思い出
資料→新潟地震後の補植の思い出
資料→田植えの思い出
資料→苗打ち



         
    野菜の植え付け

 昔から、「八十八夜頃に種まきをすれば間違いない」と言われ、野菜の種まきも、田仕事の忙しいこの時期に行わなければならなかった。当時、野菜は採種から育苗まで自家でやった。 

 
  夕顔の果実で作ったフクベ 

 そのため、どの野菜も夏に充実した実を選んで成熟させて種を採った。
 どこのナス畑にも、子どもの頭くらいの大きさの種ナスが必ず見られたものだ。

 
   種採り用ナス 

 野菜の種は、ユウガオのフクベ(上写真)の中に入れて保存しておいた。(乾燥や通気の点でフクベは種子の保存に適していた)

 
     手桶〔ておけ〕

 イモ類は居間の囲炉裏に近い床下に掘ったイモキャナ(芋置き場→サツマイモ、里芋の貯蔵用穴→日常の暮らし参照)に貯蔵しておいて種芋にした。
 当時は、どこの家でもさまざまな野菜を栽培した。
 ナス、キュウリ、カボチャ、トウモロコシ、ユウガオ、スイカ、メロン、トマト、ニンジン、ゴボウ、ダイコン、ニンジン、ゴボウ、サトイモ、ジャガイモ、ネギ、ゴマ、イトウリ、シロウリ、ラッカセイ、コンニャク、カブ、ショウガ、ニンニク、ナガイモ、その他、菜類、豆類、ゴマ(下写真ゴマ畑)など、すべて自家栽培であった。

 
  ゴマ畑

 ナスやキュウリやトマトなど毎日の食材となるものは家の近くのセンゼェ(家に隣接した畑)に植えた。
 肥料には、主に下肥(人糞尿)が使われた。テケェ(手桶)に入れてコヤシジャク(上写真)で汲んで施した。 
 ジャガイモは、芽だしをしておいて遅い雪消えを待って畑に植え付けた。キュウリやユウガオの支柱は低木や木の枝を使って作った。(上写真)
資料→サツマイモつぐり
資料→昭和8年米・野菜の播種量明記表



 
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