田堀の様子の思い出

   田 辺 雄 司

 私が小学校に上がる前から、毎年のようにお盆が過ぎると田堀人夫が隣部落から7、8人やってきました。子どもの目には、まことに屈強な男ばかりでした。
 まず、驚くのは、御飯のいっぱい詰められた大きな横メンツや丸いワッパのお弁当でした。ご飯はフタにもいっぱいに詰められていました。一升飯はゆうに入ったことでしょう。半分は昼飯に、後の半分は中飯〔午後4時ごろ食べる〕に食べるのです。
 お昼御飯が済むとみんなが座敷に広がって昼寝をするのですが、そのいびきの大きかったことを忘れません。
 午後は外が暗くなるまでモッコを担いで働き、隣村の自分の家に帰っていきました。こうして、毎日、やってきて作業は9月の十五夜祭りの前日まで約1ヶ月の間続きました。

 
   田堀りで土の運搬に使った モッコ

 終わりの日は夕方早めに仕事を切り上げて濁り酒を飲んでもらって労をねぎらいました。私の父は土蔵から金を持ってきて人夫頭にまとめて賃金を払いました。帰りぎわには、みんなが「また、来年も来ますから使ってくんせぇ」などと言って上機嫌で帰ったことを憶えています。
 このように毎年のように田堀りが行われたのは原野を切り開いて新田を作るのではなく地すべりによって壊れた田を掘りなおすことが多かったのです。私は、子供心にもどうして自分の家ばかりこんなに地すべりが多いのかと思ったものです。集落の東側にある田などは3回も堀直しをしたのでした。
 ですから、毎年、父は、冬の藁仕事に沢山のモッコを作りました。
 作ったモッコは早春の雪に晒して丈夫にするのですが、晒したモッコに毎日雪をかけるのが私たち子どもの仕事でした。