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            秋

        
      秋蚕はきたて

 秋蚕は「アキゴ」と呼び、育てる期間は9月中旬から10月であった。
 秋の取り入れと重なるため、石黒では秋蚕を飼う家はきわめて少なかった。



         
       タキモンとり

 稲刈りの準備に取りかかる前に、どこの家でもタキモン(焚き物→燃料)を屋内に運び入れた。この仕事を「タキモントリ」と呼んだ。
 タキモンには、ワッツェ(割木)とボイ(そだ・柴)、そして焚き付けに使う杉ッ葉があった。
 石黒の冬は長く厳しいだけに、一年間の薪の量は相当なものになり、それだけに冬季の燃料確保は、食料確保と同じくらい重要なことであった。
 家によっては4km以上離れた入山(共有地)で切り出し、数回中継しながら運んだ。また、家が狭く置き場所がないため一度に収納しきれず、運んだ焚き物を家の近くに再び薪ニオにして積んで置き、冬季に雪を掘って屋内に取り込む家もあった。
 運搬も当時は、人の背に頼るほかなく大変な作業であった。ボイは3束から4束、ワッツェ(薪12~13本を一束にしたもの)は重いので男で3束、女が2束を背に担いで山坂2キロにも及ぶ道のりを運ぶことは並大抵の労働ではなかった。(1束の重量→約15kg)
 家に運び込まれた薪は、カヤ葺きの中二階に整然と積み上げて置いて、必要に応じて焚き物置き場に下ろして焚いた。
資料→焚き物拾い
資料→焚き物取り込み
資料→遠山からの焚き物の取り入れの思い出

      



     ハサ場なぎ・ハサ作り

 村人は、十五夜祭りが過ぎると、いっせいに稲刈りの準備に取りかかる。主な仕事はハサ(稲を乾かす仕掛け)作りであった。まず、ハサ場の雑草をきれいに刈り取る。この仕事を「ハサ場なぎ」と呼んだ。
 石黒ではハサは主に立木を利用して作る事が多かった。中には、一抱えもある杉やブナの立ち木を利用したハサもあった。これらはハサ専用に仕立てられた木ではなく適当な間隔に生えていないので足りないところはハサ竿を立てる。竿は基部を地中に深く埋め込んでしっかりと立てた。

 
 家の周りにも立木を利用したハサを作った

 ハサ作りは、まず並んだハサ木に横縄を等間隔に何段にも掛け渡す。
 立ち木バサは特に木が一直線に並んでいないため横縄を平らに張るには、途中の縄を棒で押し上げるテコ(手伝い)が必要である。(これは主に子どもの仕事であった)
 こうして、すべての横縄が水平に張られると縄をハサ木に結わえる。次に等間隔に縦縄を横縄に絡めながらまっすぐに下ろしてハサは完成する。(ハサ縄にはグミ縄が使われることもあり、大切に屋根裏に保管して数年間使った。また、縦縄にはフジ蔓が使われたこともあった) 立木ハサは10段前後が普通であったが、もっと高いものもあり、稲掛けの時に投げ手の子供は苦労した。
 また、杉の立木を利用したハサは雨を通しにくく乾燥しやすいので多く作られた。
 立木を利用しないで棹だけを使って立てるハサを、ツクリバサ(作りバサ)あるいはタテバサ(立バサ)と呼んだ。(上写真)
→参考資料
 ツクリバサは、立て竿には丈夫なツッカイ棒をし、棹の先には頑丈な棹を横渡しにして各棹を連結し固定した。また、台風などによる被害を防ぐために風通しの「風窓」を作った。

資料→ハサ作りから稲かけの思い出
資料→ハサ結びの結び方〔動画〕
資料→ハサ木と過疎化 
資料→ハサの作り方(昭和中期ごろ)    
稲ハサづくり-ハサ結び


   稲 刈 り・ 稲 運 び
 
 9月半ばを過ぎてから、ようやく稲刈りが始まった。稲刈りには、主に古間鎌が使われたが後に専用のノコギリ鎌が多く使われるようになった。ノコギリ鎌は研ぐ手間もいらず使いやすいために終戦後、急激に普及した。
 稲の刈り方は、一人が5~6列を受け持ち、5株稲を刈り取ると脇に置く。前進し更に5株刈って、先に刈った稲の上に株を交差させるように置く。この交差部分を数本の稲でまるける(結わく)。まるける時には空中で1回転させて、束ねヒモ代わりの数本の稲を巧みによじる。
動画資料→稲刈りにおけるイネの束ね方
 当時、1反の稲を1日で刈るには2~3人を要した。
 束ねた稲はアゼに投げるか、アゼから遠い場合は田の中に置いてまとめてアゼに運ぶ。アゼまで出された稲は4把ずつを交互に6段に重ね、3束(8把で1束)になるように置き、これをエゴといった。(
動画資料 エゴの積み方
 このエゴの数を数えるとその年に刈った稲の束数が分かった。前年より多いときには「今年はカベ(語源は株か)をかった」といい、少なくなったときには「カベがおちた」といった。このような手刈りは、1人で1日70束が限度であったという。
 刈った稲はハサ場まで荷縄で背負って運んだ。
 背負い方は、荷縄の中央の太いところから二つ折りにし幅30㎝ほどにして置いて、その上に背負われるだけの稲束を重ね置く。稲はバランスをとるために交互に重ねる。重ねた稲の上に仰向けに寝るような姿勢で、荷縄の二つ折り元の部分をアゴにかける、腰の両側にある荷縄の端を脇の下から首に掛けた荷縄に外側から通して、両方同時に左右に開くようにして締める。
 そして、体を反らせて反動で一気に起きる。段差のある適当の場所を選ばないと立ち上がれないことがある。
 生稲は重く、遠いハサ場まで運ぶのは重労働であった。筆者の作場にも生稲をハサ場に背負って運ぶ小道が急傾斜で両脇の低木をつかんで這うようにして上らなければならない場所があったことを忘れることができない。
 当時は小学校低学年の子どもも、母親の袖無しをミノ代わりにして一生懸命に稲運びをした。
 昭和30年代にリヤカーを稲運びに使う家もあったが、坂道が多い石黒では使用できるのは一部の場所に限られた。

資料→稲刈りの思い出

 今日に比べ稲刈りの終わる時期は遅く、稲刈り中に霰に降られることもあった。そんなときには、田の畦で焚き火をして暖をとった。
 また、田植え後に鯉の稚魚を田に放し、稲刈り時に捕獲する家もあった。


資料→案山子の思い出

動画資料→稲の背負い方 



         
      ハサ掛け

 ハサに運んだ稲は、まず手の届く段はその場で掛け、上の段は投げ手と掛け手が2人1組となり梯子を使って掛けた。
 投げ手は、稲束の株を上に向け前後に振り、勢いをつけて投げる。それを受け取った掛け手は、稲束を両手で2つに裂くようにして分けて掛ける。稲株をしっかりと開かないと稲穂もワラも風通しが悪く乾燥しないからだ。
 掛け手は父親、投げ手は主に子どもや女衆であった。
 また、立てばさ(立木を利用しないハサ)の場合は、台風による倒壊を防ぐために何カ所か稲束をはずして幅1mほどの風窓を作ることもある。

 
昔(昭和30年代まで)はこのような稲ハサがどこにも見られた

 日の短い時節のことであり、夕方暗くなると提灯をつけて作業を続けることもあった。まことにせわしない仕事であるが、収穫の喜びを感じる作業でもあった。
 あのバリバリとした葉の手触りと甘酸っぱい稲穂の香りを懐かしく思い出す人もあろう。

動画資料→稲のハサかけ作業
資料→ハサ作りと稲かけの手伝い



        
        あ げ

 稲は、10日~15日ほどハサに掛け、乾いた頃を見はからってハサから下ろした。(乾燥状態はモミを噛みくだいて調べた。乾燥のよい籾はカリッという硬質な音がする)この作業を「稲あげ」と呼んだ。
 当日は朝早く起きてツナギ(下写真)を作る。(ツナギとは十数本のワラを2つに分けて穂の方を結んで作る束ねひも)
 そして朝露が乾く頃を見はからって稲あげを始める。まずハサの下にムシロを敷いておいて、はしごを掛けてハサ稲を上から順にはずして、そこに投げおろす。下にいる者が8把を1束に束ねる。

つなぎ

 運搬には牛馬も使われたが、ほとんどは人の背に頼った。牛馬を稲運びに使うときには、背につけた稲を喰わないように口当てをした。これを「フグ」と呼んだ。
 あげ稲はかさばるので、背負った人の体は見えずまるで山積みにした稲が動いているように見えた。
 稲あげは、稲の乾燥状態とその日の天候、朝露などを考慮して行わなければならず、稼働時間は限られていたので、まさに、猫の手も借りたいという言葉が実感されるせわしない作業であった。
 また、戦後、リヤカーが普及したが、石黒は坂道が多くリヤカーによる運搬も限られていた。とくに、石黒川沿いの下石黒と上石黒は、家が傾斜地に張り付いたように建てられていて、川辺の家と一番上の家では100mもの標高差があり、空のリヤカーも上れない坂道の上にある家が多かった。
 その上、遠山(家から遠く離れた田畑→片道30分もかかる場所もあった)(脚注5)のほとんどは、リヤカーが通るほど広い道路はなかった。 

 秋の日暮れは早く、時には、ハサ場に提灯を下げて作業をするようなことも珍しくなかった。
 当時は稲刈りが遅かったため、11月の下旬になってもハサ稲が見られることも珍しくなく、ハサ稲の上に雪が積もることもあったという。

資料→稲あげと稲こき
動画資料→昔の農作業・稲あげ



         
       稲 こ き

 当時は、あげ稲(ハサから下ろした稲)は、ひとまず家の中に取り込み、すべての作物の取り入れが終わってから冬仕事として脱穀する事が多かった。
 家の中に納まらないときは、外に「イナニオ」として積み上げておいた。(補記-いなニオ)
 稲こき(脱穀)には、足踏み脱穀機(下写真)を使った。それ以前に使われていた千歯に比べれば比較にならないほど効率的な機械ではあったが、足と手を同時に使うので難儀な仕事であった。
 脱穀したモミは、穂も混じっているのでモミ通し(下写真)にかけて選別し、更にトウミ(唐箕→下写真)にかけて選別した。
 トウミは、充実したモミを手元の一番口から、未成熟のモミは反対側の二番口から、カラのモミやワラくずは前方の吹き出し口から、出す仕掛になっていた。
 また手回しなので、回す速さと投入口の調節が同時にできた。 通常では、1分間に100回ほどの速さで回したが、穀物により若干異なった。
 トウミは、それ以前に使ったミ(箕)に比べれば大変効率的な機械であったであろう。
 トウミで選り分けたモミは、タテに入れて置いた。タテはムシロの端と端を縫い合わせて円筒状にしたモミ入れである。1枚で作ったものを1枚だて、2枚で作ったものを2枚だてと呼んだ。
 1枚だては、玄米にして8斗(140ℓ)のモミが入った。2枚だてだと4石(720ℓ)のモミが入った。置き場が狭い場合には2段にタテを積み重ねた。
 また、乾燥の十分でないモミは、天気のいい日にニワの日向にムシロを15、6枚敷いて、その上にひろげて干した。これをジボシ(地干し)と呼んだ。
資料→自家製乾燥機
 その後、家庭用動力モータが普及して動力脱穀機が使われるようになった。さらに、台の上に稲束を並べておけば自動的に脱穀する自動脱穀機が普及し大型コンバインが普及する昭和の終わりまで使われた。 
資料→脱穀の思い出
資料→稲こきの移り変わり
資料→センバ(千歯)
資料→動力脱穀機



       
      俵 ご し ら え

 米俵は、玄米4斗(約71ℓ)で目方にすると正味16貫目200匁(約60.75㎏)風袋共17貫500匁(約65.63㎏)が1俵とされた。
 特に、供出用米俵には厳しい検査があった。ワラはよく乾燥した1年前のものを、縄も検査済みのものを使用した。供出米検査では、まず重量と俵の規格検査をしてから米の品質の検査をした。
 したがって、供出米の俵ごしらえは特に念入りに行われた。規定量の玄米を詰めて大型の棒秤で3人がかりで目方を量る。そして、サンダワラを付けてから、巧みに手と足を使って数カ所を縄で縛り、縦縄を掛けて完成する。(右写真)
 手際よくやるには熟練を要する仕事であった。各家を回ってタワラゴシレェ(俵作り)をする達人もいて、1人で300俵余りを作ったといわれる。
 供出米は村中が協力して農協倉庫や指定米倉庫として使われた民家の土蔵に運んだ。
 農協の米倉庫では運ばれた米を整然と積み上げた。高くなると作業用の足場をかけて俵を肩に担いで運んだ。幅の狭い足場の上を65kg米俵を片肩に担いで運ぶことは慣れない者には骨が折れた。(筆者は二十歳の頃に役場脇の米倉庫で一度だけ作業の経験があるが足場が撓って揺れるためか、その日の作業が終わったときに異常な疲れを感じたことを今も忘れることができない。)
 また、俵の運搬にトラックが使われ始めたのは昭和34年頃からであった。しかし、個人の家から県道(トラック)までは、人の背で運ばなければならなかった。下石黒は石黒川沿いから大野集落近くまで100mほどの高低差の傾斜に家が点在していたため運搬に苦労した。 指定米倉庫として使われた土蔵では、年何回かの薫蒸をして病虫害を駆除した。燻蒸の時には、土蔵の二階への入り口の引き戸に目張りをして行った。(供出米の包装は、昭和43年には麻袋が使用されたこともあった。更に昭和50年からは現在の30kgの紙袋に代わった)
資料→俵ごしらえ
資料→大秤と供出米検査




        
       わ ら上 げ

 脱穀した後の稲わらは、当時は貴重なものであった。縄、ムシロカマスミノ草鞋などのワラ細工の材料の他に牛馬の飼料、堆肥、燃料、凍結防止材などに使われたからだ。
 わらは、家族総出でカヤ葺きのテンジョ(天井裏)まで手渡しで運んで積み上げた。この作業を石黒では「わらあげ」と呼んだ。
 大てんじょには、何百束のワラが整然とつみあげられていて、必要に応じて下ろして翌年の秋まで使われた。
資料→大天井



        
       ソ バ 刈 り

 ソバは、種をまいてから40日ほどで開花し、70日余りで実が充実し収穫できた。

刈り取ったソバ

 果実が黒くなった頃、ソバを根本から鎌で刈り取り天日に干し、ムシロの上に広げて棒で叩いて実を落とす。落とした実はフルイにかけてゴミを取り除いた。
 多く栽培する家ではトウミにかけて選別した。トウミは、一分間に100回ほどの速さで回すと手前の口から充実した実が反対側の口からはソバの茎や不稔実がでる仕掛けであった。回転が速すぎると充実した実も反対側の口へ出てしまうので手加減が大切であった。選別したソバは、布袋に入れて保存しておいた。
 そして食べる度ごとに石臼で殻を取り除き、粉に挽いて、ソバやソバガキ、ソバ団子にして食べた。

ソバ干し

 ソバ作りでは、つなぎとしてヤマゴボウ(オヤマボクチ)の葉を入れたり、ヤマノイモをすりこんで舌触りをよくするなど工夫した。
資料→ソバ作り



       
     大豆とり・豆打ち

 畑や田のアゼで育てた大豆は、サヤ(果皮)が、あかろんだ(黄色くなり充実した)頃をみはからって収穫した。大豆は根こそぎ引き抜き、根についた土をたたいて落としからハサに掛けた。
 乾いた大豆の束は、天気の良い日にトマグチ(玄関)の周りをよしずやムシロなどで密閉して、横にした臼に、両手に1把ずつ持ってたたきつけて脱穀した。たたきつけるとサヤがはじけて大豆がけたたましい音を立てて飛び散った。それでも落ちない豆は、後で棒で叩いて落とした。
 豆打ちが終わると、カゴドウシ(写真)でサヤと豆を分けてからトウミにかけて精選し保存した。
 大豆のほかに、黒豆、浸し豆なども作られたがこれらは量も少ないのでハサには掛けずに庭先などで乾かした。
 大豆は、味噌、豆腐、納豆、煮豆、豆醤油、黄粉、打ち豆などに使われて、豆がらは家畜の餌になり、最後に残った茎と根は燃料にした。豆がらはマッチで火がつき、それだけで薪に着火できるので焚き付けとしても重宝であった。
 大豆は、まさに捨てるところのない作物であった。
資料→豆打ちの思い出



        
       小 豆 取 り

  小豆の取り入れも大豆の取り入れと前後して行われた。小豆は、サヤが色づいた頃に畑から根を付けたまま抜き取り家に持ちかえり、暇を見てサヤをもぎ取ってムシロの上に広げて乾燥した。乾いた頃を見はからってバイ〔二股の木の棒〕で叩いてサヤを取り除きカゴドシでふるい、さらにトウミにかけた。
 小豆は、あんこ餅や赤飯、汁粉などの材料として欠くことのできないものであった。
 また、小豆ともち米を混ぜて煎り、石臼で挽いて作ったコウセンも当時の子どもの好むおやつであったため、小豆はどこの家でも栽培した。
〔資料→小豆の収穫〔画像




      
    野菜の収穫と保存

 野菜の収穫では、サツマイモが最も早く、稲刈りの頃に掘り起こした。サツマイモは、子供のおやつとしても貴重な作物であり、どこの家でも必ず栽培した。
 当時、良く栽培された品種は、タイハク、農林1号、キントキや川越などであった。戦時中は「護国」、「沖縄百号」と名付けられた巨大種が奨励されたが不味く不人気であった。
 保存は、居間の炉に近いイモキャナ(芋置穴→下図)で貯蔵した。イモキャナは、周りをワラで囲い、中にはモミぬかを敷き込んでイモを並べて埋め込み貯蔵した。穴は大抵の家には2カ所あり一方にはシロイモや八頭、コンニャクの他、ダリアなど花物の球根も貯蔵した。
  イモキャナの中のサツマイモは、ネズミによる被害を受ける事が多かった。どこの家でも猫を時々入れたりゴクラクオトシやパッチン(ねずみ取り罠)をかけたりして被害を防ぐための工夫をした。
 大根は11月20日すぎに収穫する事が多かった。雪の中で大根取りをすることも珍しくなかった。とった大根は10本ほどをツナギで束ねて荷縄を掛けて背負って運んだ。大根運びの頃は、道がぬかったり滑ったりして坂道の多い石黒では、苦労した。
 家に持ち帰った大根は、オオハンギリの中で洗った。タクアンにするものは縄で編んで干し、貯蔵するものは戸外やニワにダイコンニオを作って保存した。玉菜(キャベツ)は根を付けたままソイカゴ(下写真)に入れて担いで運んだ

背負いかご

 玉菜や白菜は、正月前までは、縁の下などで根をつけたまま保存しておき、その後は、家の中で保存した。当時は、固く葉の巻いた白菜やキャベツは少なく、ご馳走の食材に入った。(栽培の時期・品種・害虫の被害等などの原因が考えられる)
 ゴボウは土の中にふせて乾燥しないようにして貯蔵した。
資料→芋などの野菜の貯蔵
資料→でえこや(大根の年取り)



       
      漬け菜洗い
              
 漬け菜は、どこの家でも栽培した。晩秋に穫り入れ、近くの小川や大川で洗った。ソイカゴに入れ背負って行って洗うのだから手間のかかる仕事であった。 
 しかし、当時は川の水もきれいであったし、流水の中で洗うとゴミもよく取れ能率的だった。
 晩秋の肌寒い日の川辺で、女衆が話に花をさせながら漬け菜を洗っている姿が川下でも川上でも見られた。
 時々川面にモミジツタの葉が流れてきたが、山の木々はすでに葉を落として石黒の厳しい冬はすぐそこまで来ていた。
資料→漬け菜洗い
 


            
       カ ヤ 刈 り

 当時は、ほとんどの家がカヤ葺きであったので、カヤは屋根葺き材として貴重な植物であった。
 屋根を葺くには極めて多量のカヤが必要なので集落ごとでカヤ講が行われていたが、それぞれの家でも毎年カヤを刈って蓄えておいた。カヤ刈りは、立冬後に行うのが慣例であった。

 カヤ刈りは、家族で行うその年最後の外仕事であった。晩秋の晴れた日に家族総出でおこなった。
 昼ご飯は、全員が眺望のよい場所を選んでミノを敷物にして車座になって食べた。遙か彼方に見える戸隠山や妙高山はすでに真っ白であった。

 

 カヤ刈りの日の昼食はワッパ飯に冷やし汁と決まっていた。冷やし汁は鎌でスライスした新鮮な大根とネギを生味噌で和えて清水を加えて作る。
 この冷やし汁の味を今も忘れられない人は多いだろう。
 刈ったカヤは、カヤ場近くにカヤマル(カヤ束をまとめて立てたもの)として翌年春まで置いて乾かし、雪消えを待って家に取り込んだ。

カヤマル

 カヤマルの作り方は、雪崩などの危険のない場所を選び、最初にカヤ束の根の方を少し開き、3束のカヤを立てる。そして、穂の部分を結んで芯を作る。それに四方からカヤ束を立てかけるようにして、縄を回してしめる。再び全体の穂の部分を折り曲げるようにして縛り雨水が入らないようにする。
 私有のカヤ場のカヤは「立てガヤ」と呼び作物と同等に扱われていた。したがって、勝手にそれを牛馬の餌などに刈り取ることは許されなかった。筆者は中学生のときに馬のエサにするカヤを他家の地所で刈り取ってしまい、その夜、父に連れられて謝りに行ったことを憶えている。
 カヤは屋根葺きの他にも、風よけや雪棚などを作るときにも使われた。
 ヨシ(葦)も、ス(簾)や屋根葺き材などの用途があったので、秋に刈り取り葉をしごき取って保存しておく家が多かった。
資料→カヤ刈り(個人)
資料→カヤマルの作り方



             
      冬 囲 い

 冬囲いの主な仕事には、落とし板の取り付け、雪棚つくり、庭木の囲い、縁の下に風が入らないように土台周りをワラ(ネジワラと呼んだ)でふさぐ仕事などがあった。
 中でも雪棚作りには手間がかかった。雪棚は家の出入り口が雪でふさがることと直接寒風が吹き込むことを防ぐためにトマグチに連結して造った。平均的な大きさは、幅2m、奥行き3m、高さは2mほどであった。(日常の暮らし参照)
 このように、雪棚は、かなりの広さがありトマグチの延長としても利用できる重宝な場所であった。
 その他、庭木や果樹の囲いも大変な仕事であった。囲いは、ハサ竿ほどの太さの杉竿を使い、太い藁縄で幾重にも縛った。

 しかし、豪雪の冬は、その荒縄が引き切れ太い竿がへし折れた。特に春先の雪の溶ける時にかかる力は強大なものであった。屋根から下ろした雪が加わると更に被害を大きくした。石黒で庭造りが、あまり行われなかった事には、このような事情もあったと思われる。それでも比較的雪に強いオンコやモミジなどが庭木として植えられた家もあったが、それもメイメ(籾干しなどをする前庭)の先のほんのわずかな場所に過ぎなかった。

資料→冬囲い
資料→冬だな


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