夏休みの思い出(昭和のはじめの頃)
                        田辺雄司
 当時の夏休みは8月1日より8月20日頃まででした。
 夏休みになると、高等科2年(最高学年)の生徒が毎朝5時に木板(ケヤキの板)をカンカンと叩くのを合図にみんなが神社の境内に集まりました。高等科2年の生徒が前に出て号令をかけて体操をしました。
 体操が終わると急いで家に帰り朝飯を腹一杯食べて祖母が作ってくれた弁当箱を2つとキュウリやナスに塩を風呂敷に包んで30分ほど歩いて大根畑に行きました。
その場所は土質が大根にあうのか4、5軒の家の大根畑があり、4、5人の子どもたちが大根畑の鳥追いに集まりました。各人が石油缶を一づつ持っていき雀が大根の生えた芽を抜きにくるので石油缶を叩いて追う仕事でした。
 雨が降れば雀もこないのだが毎日熱い晴天が続き、私たちは木を切って組み合わせて草で日よけをして簡単な小屋を作って、そこに入っていました。小屋の中は涼しいので友達と夏休みの日記帳を書いたり、わいわい騒いだりして一日を過ごすのでした。
 畑は日当たりのよい場所にありましたが、そこに行く道中は林で、昼間でもうす暗く子どもには薄気味悪い道でした。一人だと夕方などとても怖くて通れませんでした。時には、ムジナテンキツネなどが道を横切ることもありました。
 私たちは怖いので夕方暗くなって通るのがいやで明るい内に帰るようにしていましたが、家に着いたときに薄明るいと、祖母に「へぇ、かぇってきたがんか、雀はなあ、うす暗くなる頃に一番、畑にやってくるんだ。馬鹿野郎どもが、明日からは暗くなるまで山へいれや」と言われました。母親だけは「ようした、ようした、すぐに湯に入れ」と言ってくれたのでうれしかったことを憶えています。祖父も雀追いから帰ってくると、いつも信玄袋から一銭アルミ貨を出してくれたので、もらう度に「また、明日も行く」言ったことを憶えています。なにしろ、一銭あれば黒砂糖のあめ玉が10個も買える時代でしたから。
 たまったお金を5銭ほど持って隣村(現在の松代町)の店まであめ玉を買いに行ってきて弟や妹に分けてやるのも楽しみなものでした。
 また、お盆のお客が来るときには、田代の青バスの停留所まで迎えに行き、また帰りにはそこまで送って行き10銭ももらったことを憶えています。
 当時、夏休みの歌がありました。一番だけ憶えています。

   明日から楽しい夏やすみ
   山辺に野辺に白百合が
   夢のように咲いていた

   (居谷在住)