春


        
 ミ
ノ、荷縄、ゾウリ等の雪さらし

 3月の中旬になると、ようやく雪も降り止む。
 人々は冬の間に作ったミノ荷縄ワラジゾウリテゴ、などのワラ製品を、家の周りの雪の上に数日間さらした。

 さらした物の上に毎日、雪をのせるのは子供の仕事だった。
 さらしておいたミノなどの下の雪は解けないため、さらした物の形で周囲の雪面より高くなっていた。そこで、わら細工を動かしてその上に、凸状に消え残った雪をスコップで移動したことを憶えている。
 雪にさらすと、ワラ製品が丈夫になるばかりか軽くなる上に防虫効果もあるといわれた。

ワラ製品の保管

 こうして、雪さらしをしたワラ製品は屋根裏に下げて保存しておいた。〔左写真〕
          ワラ製品の雪さらしは、春霞の立ちこめる早春の風物詩であった。
資料→ワラ製品の雪晒し


        
    ハ  リ  キ (春木)
 
 4月の中ごろ、山腹の雪が消えるのを待ってナタを使って灌木を切り出す。
 春木には主にハンノキナラブナヤマモミジマンサクタニウツギリョウブタムシバヤマザクラキブシなどが用いられ、丈をそろえた直径30cmほどの束に、マンサク(4年木が適していた)やネコヤナギ、ナラの若木、ユキツバキなど粘りのありる木を使って束ねた。

(下ビデオ動画資料参照

 この仕事は「ボイきり」と呼ばれ、ハリキ仕事の一つである。
 ボイは、麓に残雪のある時期に斜面で低木を切って一定量になると、大束にまとめて麓に転げて落として置いて、残雪の上で一束ずつに束ねることもあった。

 山腹の低木を、このように4、5年おきに伐採することは、自然保護のためにもよかった。というのは、山腹の低木が大きくなりすぎると雪に引っ張られて土砂崩れの原因になることがあるからだ。ボイに適した丈の頃に切り取ると、それが防止できた。

 
  ねじき〔ボイを木を使って束ねる〕 

 ボイは焚きつけやワリキの代わりとして欠かせない燃料であったが、ボイ山を持たない家は、家から数キロも離れた入山(共有地)(補記−入山)まで行って切るほかなく、その労力は並大抵のものではなかった。
 ボイは3〜4年ほど間を置けば、切り株から出た芽が成長するので、また切り出すことが出来た。
 もう一つの仕事に「ワッツェ(割木)づくり」がある。ブナやナラなどの高木を切り倒し、山鋸で50から60cmほどに輪切りにし、マサカリやユキを使って割る。大きなものは矢(鉄製くさび)を打ち込んで周囲から割っていく。この仕事を「ワッツェワリ」と呼んだ。
ワッツェにした大木の先の枝は細かくしてボイにした。
 ハリキのボイやワッツェは、道路沿いにタキギニオ(写真右上)にして積んで乾かし、秋の稲刈り前に家に取り込んだ。

 ポイ(ブナの木の枝先)運び

 ワッツェニオの大きさは幅6尺、高さ6尺ほどが普通で、丸太で土台をつくり、2列ないしは3列に並べ、列が割れないように間に何本かのツナギ木を入れた。(下図参照)そして、雨水が漏らないようにカヤで覆い、真ん中のツナギ木から縄をとって屋根カヤを固定した。
 
動画資料→たきぎニオの屋根掛け 

 
ワッツェ(薪)ニオの作り方

 ワッツェにするブナやナラの木を持たない家は、田植えや稲刈りの手伝い手間との交換などにより手に入れた。一抱えもある木を一本譲ってもらうと代償に十日ほど農作業の手伝いに行ったものだという。

 

 このように当時の雑木林は計画的に伐採されたため森林の適切な管理にもなった。伐採により林床に日光が届き、木の世帯交代がおこなわれたからだ。草木のみではなく昆虫のような動物たちにも理想的な環境の保全となった。
 たとえば、ギフチョウなどは明るい雑木林にしか生息しないので、放置されたうす暗い雑木林が多くなった現在では、昔に比べ明らかに個体数が減少している。

資料→春木の思い出
資料→春木のボイの束ね方(動画)
資料→薪ニオの屋根かけ(動画)
春木〔芝木〕の結わえ方→解説表示

         
    ベ ト 敷 き

 4月に入ると暖気で雪が堅くしまる。とくに昼夜の温度差が大きいと、朝、ヤブ(雪原)が凍みる。
 村人は、こんな日を逃さずアラベト(新土)を箱モッコ(写真)で田に敷き込む仕事に精を出した。

 石黒ではこの作業を「ベト敷き」と呼んだ。ベト敷きは、雪消えを促進するためばかりではなく、土質改良のための客土としても有効なものであった。
 箱モッコは底部に2本のソリ板(多くはイタヤカイデ材)がついていて固い残雪の上ではよく滑り、能率的な冬の運搬具の一つであった。特に、ヤブ(雪原)が固い午前10時頃までは滑りがよく能率が上がった。

 
           箱モッコ 

 しかし、気温が上がって雪面が軟らかくなるにつれ、箱モッコの滑りが悪くなり引き綱が肩に食い込むほど重くなる。 ハルイダシ(春の初仕事)ということもあり疲れが残る仕事であった。
 子どもの頃、箱モッコの後押しをしていた時にモッコに積んだ土の香りが、何故か懐かしいものに感じたことを覚えている。待っている春の香りであったのであろう。

資料→べと敷き



           
      灰 ま き

 4月となって雪が降り止むと、ヤブ(雪原)が固く凍った朝に灰をカナミ(金箕)に入れて苗代やセンゼェ(屋敷内の畑)にまいた。均一にまくには想像以上に手間がかかったが、灰が太陽熱を吸収して雪解けを速める効果は驚くほどであった。 
 当時、囲炉裏やカマドから出る一年間の灰の量は相当なものであった。どこの家でも、それを古俵などに入れ〔灰俵と呼んだ〕大切に保存して置いて肥料として使った。
 とくに、野菜作りに使う人糞には灰を混ぜて使うと土を酸性化から防ぐことができると言われた。水田にも肥料として撒いた。
資料→灰の利用
資料→灰の利用−記帳資料
 


       
    杉の枝打ちと木起こし

 杉の枝打ちは、春の彼岸前(木が成長を停止している間)の大切な仕事であった。
 ナタ1丁で杉の太い枝を打ち払うには技術と体力が必要だった。

 
        雪の重みで傾く杉の若木 

 また、枝の付け根を幹と平らに、かつ枝下部の皮を引きはがないように打ち払うには熟練を要した。
 左手で幹につかまり、重いナタを振り下ろさなければならないので体力も要る。
 当時は、安全ベルトを使う習慣もなく危険の伴う仕事であり、体力の消耗は地上での仕事の比ではなかった。
 切り落とした杉の葉は燃料として使った。
 また、「杉の子起こし」も、この時期に欠かせない仕事の一つだ。
 木起こしの作業は幼木のうちは簡単だが、10年を過ぎると大変な重労働となる。
 雪で傾いた小杉の幹の中ほどに取り付けたロープを数人かがりで引く。ようやく起こしたところで、ロープを基づけ(別の木の根元)にひとまず固定する。そこでワラ縄を使って基づけの木に改めて結び固定してからロープをはずす。そして次の木に移るという作業であった。
 昭和40年代になって2連滑車(写真)が使われるようになるまでは、このように直接、力任せに引いて起こした。夕方になると正に体力が尽き果ててしまったという感じになった。

2連滑車を使った杉の木起し(昭和50年ころ)

 その後、チルホール(木起こし機)と呼ぶ手動のウィンチのような道具が普及して作業が楽になった。
 この機械の力に頼るやり方は、一人で経20〜30cmの木も起こすことができた。しかし筆者の経験では、起しすぎないように留意しないと木に無理がかかってしまうおそれがあった。
 こうして、新しい木起こしの機械が普及しかけたころには、過疎化が進み石黒の多くの森林は放置されるままとなっていった。〔※森林組合に委託された森林は定期的に手入れがなされ続けてきている〕
 
 また、木起こしは杉の開花期にあたり、杉花粉が黄煙のように舞う中での作業となる。頭から花粉を浴びて全身が黄色くなった。幸い、当時は杉花粉症などなかったが、気分のよいものではなかった。

 
  二連滑車〔木おこしに使用した〕 

 このように、豪雪地で杉の木を育てることは並大抵のことではない。こうして丹精して育てた杉も、ようやくひとり立ちできた頃に雪の重みで最も多く折れた。それも素性の良い木が折れやすかった。とくに、昼間しめった雪が降り、気温が下がった風のない夜に折れる。時には木の折れる音が一晩中聞こることもあるという。
 十数年も木起し作業を続けて、ようやく人間でいえば15、6歳まで育てた杉の木の大半が一夜にして折れてしまった光景を目の前にした時の気持ちは、豪雪地以外の人には分からないものであろう。
 今日でも、石黒で杉を育てるためには少なくとも15年間は木起こしが必要である。

資料→杉の子起し
資料→植林

 4月上旬、ウグイスの初音を聴く頃、1m余の残雪に覆われた苗代に灰を撒く、しばらくして所々に穴を掘って地表を出して融雪を促進する。
 さらに、消え残った雪を細かく割る。こうして、どこの家でも1日も早く苗代の雪を消そうと精を出した。
 日光にあてて地面を暖めることが、よい苗づくりにはどうしても必要であったからだ。

資料→スジマキ



      
  苗代づくり・すじまき・育苗  
    
 当時の苗代は水苗代で気候任せの育苗であった。したがって、大雪の年や春先の気温が低い年は田植えも大幅に遅れた。 

 その後、油紙で覆ったり、クンタン(もみ殻をいぶし焼きにしたもの)を撒いて保温するなどの工夫がされ、本格的な保温折衷苗代が行われるようになったのは昭和30年頃である。
 すじまきは、大抵、八十八夜の頃に行われた。すじまき前に、村で「共同すじ洗い」(塩水撰)を行い種籾を塩水で選別した。
 また、発芽を促進するために、風呂の残り水に2、3日漬けて芽出しをすることも行われた。

 すじまきは、均等にまくことが大切であり、風のある日は避けた。
 水苗代では、すじまき後、保温のため水を深めに張り、発芽したら水を落とすなど、気温に合わせて水の調節をこまめにしなければならなかった。
 また、カラスなどの鳥の害にも気を配り、かかしを立てたり、カラスの死骸をぶら下げたりした。そのほかニカメイガの被害を防ぐために誘蛾灯を使用する家もあった。
資料→昔の苗代作り
資料→スジもみとりとスジ洗い
資料→スジまき
 


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