太平洋戦争のころの子どもの暮らし

 
小学校入学の頃  終戦直後のくらし     夏 秋  冬  あとがき

       まえがき

 4月から、みなさんと社会科で日本の歴史について学習してきました。
 3学期の学習項目の一つである太平洋戦争の学習で、当時の子どもの暮らしの様子について私が経験したことを話すとみなさんは、とても興味を持って聞いてくれました。そこで私は、当時のことを文章にまとめて、みなさんに読んでもらうことを約束しました。
 しかし、いざ書き出してみるとなかなか筆が進まず、正直なところみなさんと約束したことを少し後悔しました。
 そうです、あれからすでに40年以上の歳月が過ぎてしまったのですから・・・・・。
 とはいえ、だれにとっても子どものころの思い出は、心の奥に美しい光芒(こうぼう)を放って生き続けているものなのです。
 アメリカの絵本作家モーリス・センダックは、「大人は子どもの延長線上にあるのではなく、一人ひとりの子どもは、どこか他の場所に引っ越して生きていて、いつでも精彩(せいさい)を放って生きているのだ」と書いています。
 とにかく、私も記憶の糸をたぐり寄せて心の奥深くに生きている子どものころの自分に出会って、みなさんとの約束を果たしたいと思います。

(1986.2 柏崎市 南鯖石小学校 大橋寿一郎)
 ※以下の文章はHP石黒の昔の暮らしの「子どもの暮らし」の内容と重複(ちょうふく)するところが多くありますのでご承知ください。もともと、本文をもとにしてHP「子どもの暮らし」は書いたものです。

     
     小学校入学の頃

 私が小学校に入学したのは、太平洋戦争で日本の敗色がいよいよ濃(こ)くなってきた昭和20年4月でした。
 3月に硫黄島(いおうとう)の日本の守備隊が全滅すると、4月には、ついにアメリカ軍が一挙に沖縄に上陸したのです。実にこの戦いで沖縄の住民10万人近くと日米の兵隊10万人余りが命を失ったのです。
 そして、「いよいよアメリカ軍がわが国の本土に上陸し攻めて来る日も近い」と日本中が大騒ぎとなりました。
 こんな時代ですから子どもの入学を祝うなどという余裕はなかったのです。入学式の思い出など、ほんとうにぼんやりしたものしかありません。記録的な豪雪で4月に未だ1m余りの残雪に覆われた道を、もんぺ姿の母親に連れられて学校へ向かう自分たちの姿が、色あせた絵葉書の絵のように頭に浮かぶのみです。
 学校に着いてからの、肝心な入学式の記憶は全然ありません。ただ児童玄関から、まだ雑巾がけの跡(あと)が残った広い体育館に入ったとき、耳にしたオルガンの音だけは、不思議とはっきりと覚えています。
 当時は、戦時体制下の教育で、小学校を「国民学校」と名前を改めて軍隊式の指導が行われていました。
 低学年のうちから、教務室に入るときには、入り口で先ず「○○先生に用があって参りました」と大声であいさつして入り、帰る時も出口のところで「帰ります」と大声で言う決まりになっていました。
 また、下校時には集落別に校門の前に並んで「校舎に対して敬礼」という班長の号令のもとに、最敬礼をしてから帰ることになっていました。
  それから、校庭の端〔はし〕の方に大きなすりばち状の穴が掘ってあり、その穴の斜面を上級生の人たちが全速力で円を描くように走っていたことを覚えています。これは単なる遊びではなく、飛行士になるための訓練であったとのことです。高等科(こうとうか)の生徒たちは底へ向かって走りおりてから、こんどは両腕を広げて円を描きながら上に向かって走ってくるのでした。
 このころ、沖縄に上陸したアメリカ軍と日本軍の戦いは3か月にもわたり、住民を巻き込んだ悲惨な戦いとなりました。この戦いでの戦死者数は日本や米英の兵士と民間人を合わせて、20万人を越えたのでした。その間にも、日本の大都市への爆撃は日に日に激しさを増していました。
 私たちの学校でも、空襲からの避難が行われました。私たち低学年は校舎の近くのブナ林の中に避難しました。
 いくら物資の豊かなアメリカ軍でも、よもやこんな山奥に爆弾〔ばくだん〕を落とすことはないだろうという安心感があったのでしょうか。私たちは、避難先のブナ林の中で木登りなどして遊んで、受け持ちの若い女の先生を困らせていました。
 しかし、こうして避難したときには、木々の梢(こずえ)の上空を編隊を組んで飛ぶ飛行機がいつも見えたことを憶えています。これらの爆撃機(ばくげきき)が日本のどこかの都市を焼き、多くの人の命を奪っていたのです。
 その中には私たちと同年配の子どもも多くいたことを思うと、青空を飛ぶ白銀の爆撃機の編隊を物めずらしく見ていた私たちは、申しわけないほど幸運であった思います。

 
 アメリカ軍の爆撃を避けて。東京などの都市から疎開(そかい)してくる子どもが、昭和19年ころから多くなりました。そのほとんどが、親類(しんるい)を頼っての疎開でした。
 疎開してきた児童生徒は50人ほどいたでしょうか、私たちの学級は、もともと49人だったのですが56人になり教室が、きゅうくつになりました。先生が机の間を通るときには体を横にしないと通れないほどでした。
 都会から来た子どもたちは、山深い村の子どもの私たちにとって、ものめずらしいことばかりでした。はきはきした標準語の言葉づかいや服装などに強い印象を受けました。
 しかし、彼らにとっては、石黒での生活は、つらいことの多い生活であっただろうと今にして思います。というのは、彼らの多くがやってきた昭和19年から20年にかけては、記録的な大雪や大雨など災害の多い年でした。積雪の記録はありませんが6mに達したと思われる豪雪でした。雪の中に生まれ育った私たちとはことなり、彼らにとっては雪の中の暮らしそのものが初体験だったのです。雪道を歩くこともままならず、私たちにとっては何でもない登下校も、彼らにとっては必死の思いであったでしょう。
 フカグツをはいて、ミノボウシで身を包んで、私たちに遅れまいと必死に歩いていた姿を今でも忘れられません。
 さて、このころの子どもの遊びといえば、やはり戦争ごっこが多かったように思います。葉のついた木の枝や草を腰に差して林の中を敵陣めがけて進軍し、フキの葉の部分を結んで作った手りゅう弾を相手に向かって投げつけるというような遊びでした。


 そんな時には敵とはアメリカであり、それは憎むべきものの代名詞でもありした。雨の日には、神社の大木の下でサイダービンの中にクロオオアリとアカオオアリを入れて戦わせました。そのときにはクロオオアリは日本で、アカオオアリはアメリカでした。そして、いつもアカオオアリが全滅するまでクロオオアリを入れて戦わせたのでした。
 幼かった私たちには、当時の戦況〔せんきょう〕などは分かりませんでしたが、なんとなく日本が敗退しつつあることが感じられました。時々、神社で行われる婦人会の竹槍(たけやり)訓練を見に行きましたが、子ども心にもどこか頼りなさを感じたことを覚えています。この訓練は本土に上陸してくるアメリカ軍を竹やりで迎えうつためというのですから、みなさんが二学期に学習した戦国時代以下の戦法だったわけです。
 しかし、毎日、ラジオから勇ましい軍艦マーチに続いて放送される「大本営発表-だいほんえい」は日本が敗けている事実を伝えず、勝利に向かって着々と進んでいるかのような嘘(うそ)を伝えていたのでした。
 また、このころ、完全に鉄や石油の輸入を絶たれた政府は、家庭にある金属製の道具の供出〔きょうしゅつ〕を強制しました。各家からは火鉢や鍋〔かま〕、仏壇(ぶつだん)の仏具の果てまで、また学校の二宮金次郎の銅像やお寺の鐘なども供出させられたのでした。
 これらの金属の用具が村の一角に集められ、ハンマーでたたかれて圧縮される様子を友達と見物に行った時のことでした。村で木挽き(こびき)の仕事をしていた老人が「こんげな、のうのう様(神様)の物までつぶしてしまうようじゃ、日本はもう終わりだいのう」と吐き捨てるように言った言葉を、今もはっきりと覚えています。

 
  そして、このおじいさんの言葉通り、その年の8月6日に広島に、9日には長崎に原子爆弾が落とされ、敗戦を迎えたのでした。原子爆弾で、23万人以上の死者が出たことは皆さんが学習した通りです。その5年後までに原爆の後遺症での死者を含めると34万人に達したのです。
 また、このころには、私たちと同年齢くらいの子どもの父親の戦死がしばしば伝えられました。私の幼友達Kさんの父親は硫黄島(いおうじま)で戦死したのでしたが、この友達は、立派な学習机を持っていました。当時、学習机を持った子どもなどなく、私たちは石油箱やリンゴ箱を横にして机代わりに使っていました。
 私はその子の家に行くたびにその机をうらやましく思いました。ところが後年、彼の母親にに聞いたところでは、大工であった彼の父親が召集令状を受け取ったのち出征(しゅっせい)前夜までかけて、小学校に入学する息子のためにその机を作ったとのことでした。
 そして、出征した彼の父親は「比類ない地獄の戦い」と今に伝えられるような、凄惨(せいさん)極まる硫黄島での戦いで亡くなったのでした。
 硫黄島では2万1千人の兵士のうち、2万人が戦死したと伝えられています。その中には、私の友人の父親のように幼児を残して出征し、戦死した人が何千人もいたのです。ましてや、太平洋戦争全体の戦死者となると同様な人が何十万人もおられたことでしょう。
 故郷に残した家族に思いを馳(は)せながら、地獄のような戦場で死んでいった人たち。私たちは、敵味方を越えて戦争で死んでいった人々と家族の悲しみを思いやり、子々孫々(ししそんそん)にわたって戦争の恐ろしさをしっかりと伝えていかなければなりません。
※資料-学習机
 また、終戦に先立つ8月1日には長岡の大空襲があり、街全体が焼かれ1,500人近い人たちが亡くなりました。その日の夜、私も、家の庭から見て長岡方面の空が真っ赤に染まっていた様子を覚えています。ちなみに、窓ガラスを震わせるほどの音も聞こえたように記憶していますが、これは思い違いかもしれません。
 こうして、ついに8月15日には長い戦争が終わったのでした。正午の天皇陛下が国民に終戦を知らせる放送を、私も家で家族と共に聞きました。囲炉裏(いろり)のまわりにいたように記憶しています。
 放送の内容は聞き取れませんでしたが、とにかく日本が戦争に負けたということはわかりました。
 その時に、祖母が「こりゃ大変なこった、お前たちもこれから今まで通り学校に行けるやらどうか・・・・」と私に言った言葉で、「これは大変なことになった」と子供心に感じました。

資料→子どもが聞いた終戦の詔