子どもが聞いた終戦の詔

 昭和20年8月15日の終戦の詔(みことのり)を聞いた時のことを書いてみたいと思います。その時、私は、国民学校1年生でした。
 私の記憶では家族で、イロリばたで聞いたように思います。この放送があったのは8月15日(水)で平日でしたが、夏休みでしたので家にいました。
 また、真夏にイロリばたに居たことも変に思う人もあるかもしれませんが、当時は、食べ物の煮たきはすべてイロリの火で行なっていました。そして、イロリばたは一家だんらんの場所であり、お客さんもイロリばたに迎えたのでした。
 ちょっと、横道にそれますが、皆さんには信じられないことかもしれませんが、そのころのイロリばたの場所には厳しい決まりがありました。ヨコザと呼ばれる場所は父や祖父、あるいはお坊さんやお医者さん、本家の主人などが座ります。シモザやタナモト(戸だなのある側)に場所には母や祖母。キャクザはお客さんのない時には子どもが座ることが許されていました。ちなみに、私は、ヨコザやキャクザに座った母や祖母の姿を唯の一度も見た記憶はありません。

 さて、話を戻しますが、終戦のみことのりの放送を聞いた時には私はイロリばたのキャクザに座っていました。ヨコ座に父親が、下座には祖母が、いたことはよく憶えていますが、母と姉はタナモトにいたように思いますがはっきりとした記憶はありません。ただ、みんながラジオの音に一心に耳を傾けていたことを憶えています。
 そのころのラジオは雑音がひどい上に音質も悪くとても聞き取りにくいものでした。
 その時の詔(みことのり)の内容を調べて見ますと、
「朕(ちん)深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑(かんが)み、非常の措置(そち)を以て時局を収拾せむと欲し 茲(ここ)に忠良なる爾(なんじ)臣民(しんみん)に告ぐ」という文章で始まるものでしたので、たとえはっきりと聞き取れても子どもには理解できる内容ではなかったのです。
 ただ、周りの家族の話から日本が戦争に負けたということははっきりとが分かりました。
 うすうす予想していても、いざ敗戦となれば、大人にとって一大事です。何よりその後の生活の変化が気になります。おそらくそれが話題になったのでしょう。その会話の中で、祖母がその場にいた私に「お前たちも、これから今まで通り学校に行けるかどうか分からないよ」という意味の言葉をかけたのでした。そのとき、私は、なにか大変なことになったということは分かりましたが、幼い頃のことであり特に強い不安にかられるようなことはありませんでした。
 ただ、今にして思うと、75年も前のこの日のたった数分間の様子が1年生のときの記憶の中で、異常なほどきわだって鮮明に思いだすことが出来る事を不思議に思います。
 大人たちの動揺(その様子の記憶は全然ありませんが...)が子ども心にも伝わったのでしょうか。まさに歴史上にかつてないほどの変革をもたらした太平洋戦争の敗戦の衝撃は7才の子どもの心にも大きな痕跡を残しているのかもわかりません。

  編集会 大橋寿一郎