冬    


 子どもにとって、もっともつまらない時期は、初冬の木枯らしの吹く頃でしょう。ごうごうと山が鳴り、ブナナラの枯れ葉が頭上を高く舞う日など、野外の好きな子どもも家の中に逃げ込むしかありませんでした。
 昔から「黒姫山が3回白くなると、雪が村々に下りてくる」といわれました。学校の廊下からは黒姫山が眺望(ちょうぼう)できましたが、確かに大抵の年はその通りでした。
 そして、いよいよ初雪が村に降ると、暗い冬枯(ふゆがれ)の世界から、一夜にして白銀の世界に変わります。それは子どもにとっては斬新な光景でした。思わず、玄関から下駄ばきで初雪の庭に走り出て鼻から吸い込んだ空気は、昨日の空気と香りが違います。それは、まさに子どもたちが密かに待っていた冬の香りなのでした。
 当時の子どもたちの冬の一番の楽しみは、やはりスキーでしたが、今のような立派な用具ではなく、素人の作ったスキー板に簡単な金具をつけた粗末なものでした。
 そのころのスキー板は合板ではなく、狂い(変形)が生じることがありました。私が小学生の時に持っていたスキーはイタヤ材の短いスキーで、左の板にひどい狂いがありました。斜面をすべると狂った板の方が自然に外側に流れてしまうので、左足を頻繁(ひんぱん)に動かして修正しながら滑るのでした。
 小学生のころは、スキーをフカグツにしっかりと固定するための皮バンドなど買ってもらえなかったので、(お)縄を使って金具に固定しました。苧縄は、金属との摩擦(まさつ)で切れやすいため、何本も用意して出かけたものでした。
 中学生になると、私たちが「スイレン」と呼んでいた皮バンドと後側の金具の締め具のついたものを買ってもらう人も多くなりました。
 しかし、そんな粗末なスキーでも私たちにとっては素晴らしい遊具で、日暮れまでスキー乗りをして服の裾(すそ)をガワガワに凍らせて家に帰ったことを覚えています。
 私は、中学2年生のときに長いスキーを買ってもらいましたが、翌年の冬に折ってしまいました。大工さんから、折ったところにトタンを当てて修理してもらって何とか我慢して使っていました。

 また、雪上スケートのような遊びもよくやりました。
 それは厚い板にネマガリタケを割ったものを打ち付け、装着用のヒモをつけたもので、小学校高学年になると自分で作りました。雪上スケートは、3月のころから雪が下だまり(固くなり)、とくに雪面が固く凍った朝が最適なコンディションです。そんな朝は早めに家を出て、登校の途中で友達と滑って遊んだものでした。固く凍った雪面の細かい雪の粒が朝日にキラキラと輝いていた様子が、今でも目に浮かびます。
 他にも、稲わら三把(わ)ほどをそろえて穂の方を押し曲げて束ねて作った「ワラゾリ」と呼ばれたソリもあり、主に低学年の子どもが好んで乗っていました。クッションが効いて乗り心地もよく、急斜面でもそれほどスピードが出ず安心して乗れたのでした。高学年になると藁ぞりの底の部分にカヤを隙間ないほど取り付けてスピードが出るよう工夫しました。
 また、小学校高学年のころには、日曜日の朝、そのワラゾリを引いて遠くの山まで出かけました。その日の朝は、母に朝飯用の餅(もち)を焼いてもらって間にゴマ味噌を塗り二枚合わせて、サンドイッチのようにして、布に包み肌着の下の腰に巻いて置くのでした。こうすると体温で保温でき、いつまでも温かく柔らかで美味しく食べられたからです。
 山の頂上で食べた、囲炉裏の香りと味噌の香りがする、餅の味は今でも忘れられません。遊び疲れて帰るのは10時ころでしたが、そのころは雪面が柔らかくなり、腰まで潜(もぐ)ってしまう場所もありました。

 
 そのころ、学校での遊びには、どんなものがあったでしょうか。今思い出せるものは、片足相撲や鬼ごっこなどです。実は石黒は小中学校でしたから、小学生と中学生が同じ体育館を使っていました。小中で使用時間の割り当てがあったかどうかは覚えていませんが、終戦直後は児童生徒数が400名を越えたといわれています。休み時間の混雑ぶりは想像できると思います。当時、女の子のほとんどは教室でお手玉などをして遊んでいたように記憶しています。
 体育館での冬の履物(はきもの)は藁草履(わらぞうり)が多かったのですが、ほこりが立ち衛生上問題があるという理由(当時は結核患者が多い時代)で裸足で遊ぶように言われました。敗戦後しばらくはズックなど求めようにも品物がなかった時代でしたから、それも仕方のないことでした。しかし、寒中の朝会時など冷たい床の上に動かずに立っていると足がしびれるほど冷たく感じたものでした。
 その上、当時は多くの子どもが、足のかかとの部分などに痛々しい ひび・あかぎれを発症(はっしょう)していましたので、遊んでいて他の人の足がその部分にあたると、ひどく痛かったことを覚えてます。
 また、当時の教室の暖房は薪ストーブでドラム缶を利用して作ったような形をしていました。
 3時間目になると、その上に、みんなのお弁当箱を積み上げて温めます。それを日直当番が休み時間に上下を入れ替えて、平均に温まるようにするのでした。4時間目ともなると弁当のおかずの味噌漬けの匂いが教室中を漂い、みんなが終わりの鐘を今か今かと待ったものです。当時の弁当は御飯と味噌づけだけの者がほとんどでした。梅干しを真ん中に入れた日の丸弁当が戦争中には奨励(しょうれい)されましたが、梅干しは石黒では貴重な食品で子どもの弁当のおかずなどには出来ないものでした。

 子どもには、冬も色々な家の手伝がありました。まず、4年生くらいになると、朝の道つけが任されました。道つけとは、玄関から村道(公道)まで間の小路(こうじ)の雪を踏み固めて道を作る作業です。玄関でカンジキを履いて外に出ると、前夜から朝にかけて降った雪が多い時には50~60cmほどありました。(1m近く降ることも時々ありましたが、この時には父親が道付けをしました。足の短い子どもでは腰まで雪に埋まって動きが取れないからです)
 まず、カンジキで隙間のできないように小幅に歩いて雪を踏み固めて進み、帰りはその脇をもう一列踏み固めます。それで最低限の幅(大人がすれ違える)の道ができたのでした。次は、前に踏んだ場所をもう一度踏みしめて進みます。帰りも同様です。
 このように念入りに踏み固めるのですが、子どもは体重が軽いために大人が歩くと潜(もぐ)ってしまうこともあります。ですから新雪の多い日には、3度も4度も往復してふみ固めることもありました。
 細かい雪がしんしんと降る早朝など、道つけをしていると、時々、日常世界から別世界に迷い込んだような不思議な気持ちになりました。雪の大地と空が、降る雪でつながって一つになり自分がその真ん中に居るような感じです。たまに、道つけをしている子どもたちの話声もきこえましたが、深い深い穴の底から聞こえてくるような声でした。
 こうして、道つけを終える頃には体がポカポカと温かくなっています。カンジキをぬいで座敷の囲炉裏に行くと餅(もち)がワタシの上で焼かれていて、すぐにも食べられるように用意ができていました。

 また、屋根の雪下ろしなどの手伝いもありました。子どもや女性は玄関や土蔵の雪おろしをし、父親はカヤ葺き屋根の雪を下ろしました。玄関(二階に寝室があった)などは3m近い雪が積もると軋(きし)み音を立てました。夜、寝ている時に「ギシッ、ギシッ」という音を聞くのは、とても気持ちの悪いものです。翌日は何としても雪下ろしをしなければと子ども心にも思いました。
 雪下ろし当日は、子どもたちも高い屋根の上に上って喜んで雪下ろしを始めるのですが、2時間もするとだんだん疲れてきて、家と土蔵の雪下ろしの終わる夕方ごろにはもう疲れ切ったという感じでした。ですが、雪下ろしの終わった家や土蔵を眺めると、まるで自分の肩の荷物をおろしたような快さを感じたものです。
 家の中に入ると窓という窓がすべて雪でふさがり真っ暗闇で懐中電灯が必要なくらいです。父親が座敷の明り取りの窓を掘り出すとまぶしい程の明かりが差し込んだ時のことは忘れられません。
 石黒は豪雪地にありましたから、雪の害による停電は珍しいことではありませんでした。一晩中停電することもあれば、2~3日に及ぶこともありました。そんな時、ロウソクの明かりで夕飯を食べるのですが、食べている最中に故障した送電線が修理され、急に電灯がつくこともありました。そのときの喜びと感謝の気持ちは今でも生き生きと蘇ってきます。座敷の電球は30ワットでしたが、まぶしいくらいの明るさに感じたものでした。

  また、当時の石黒では、月遅れの正月でしたから、今の1月31日が大晦日、2月1日が元旦でした。
 当時の子どもたちは、正月を今のあなた方以上に楽しみに待っていたと思います。
 でも、そのお正月を迎えるまでに子どもの手伝う仕事が色々ありました。大人は,縄ない、ムシロ編み、カマス織り、ワラグツワラジなどの履物作りなどの藁仕事、子どもの仕事は石うすひきの手伝いや大掃除の手伝いです。石うすひきの作業は、毎晩のように続き、とにかく根気のいる仕事でした。どこの家でも、家族の中での石うすひき担当はたいていが祖母で、その手伝いが子どもの役目だったのです。
 石うすで挽くのは、トリコナ用、チヤノコ・コナモチ用、豆しょうゆ用、黄なこ用、小豆こうせん用の粉など色々ありました。石うすは一回目をひく時には砕け方が粗(あら)いために軽いのでした。しかし、2回目からは重くなり40分も続けると単純な作業でもあり、いやになってしまいます。祖母はそんな私たちをほめたり、なだめたりしながら上手(じょうず)に手伝わせたものでした。
 たとえば、「お前たちがこうして手伝ってくれるから、皆が正月に黄なこ餅(もち)が食べられるのだ」「おまえは、力があるね。わたしゃもう年寄りで一人では石うすをひくことができねぇ」などと言うのでした。
 また、石黒の昔話をいろいろ聞かせて私たちが退屈(たいくつ)しないように気をくばってくれました。昔話の中には「せいじょ」などという少し怖い話もあり、薄暗い座敷のイロリのそばで石うすのゴロゴロという音と共に聞くと、背中がゾクゾクすることもありました。夕食後の1時間ほどの手伝いでしたが、しばらくの間、毎日のように続くのでした。 
 その他、ワラたたきの手伝いもたまにありました。小学生のころには、大人が杵(きね)でたたくときにワラを回す役目でした。まんべんなくワラが柔らかくなるように、杵(きね)の当たる位置をワラ束(たば)を回して変えてやる役目です。これは、楽な仕事でしたが、板張りのニワ(作業場)での仕事なので寒さがつらいのでした。
 月を迎えるための家じゅうの大掃除もありました。この日は朝から風呂を焚(た)いてお湯をわかし、そのお湯を使って家じゅうの柱やサシやオビ戸などを拭(ふ)くのです。
 当時の囲炉裏は、現在のガスコンロの役目を果たしていたので一年中焚(た)いていました。その煙で柱や戸に煤(すす)がついて汚れるのでした。
 この一年中の煤(すす)を取りのぞく仕事です。高い所はハシゴをかけて念入りに漆(うるし)の赤い色がきれいに現れるまで拭きました。手桶(ておけ)のお湯はすぐに墨(すみ)を入れたように黒くにごります。大寒(だいかん)のころで手がしびれるほど冷たく、その手桶(ておけ)のお湯の中でしばらく両手を温めたことを思い出します。
 また、この拭(ふ)き掃除の前に「ススハキ」と呼ぶ、天井張りのススをはき落とす掃除がありましたが、これは父親の仕事であり、子どもや年寄りは親類の家に宿かり出かけるのでした。これは子どもにとって、とても楽しい日なので前々から待っていたものです。朝から夕方まで親類の家で遊んで過ごすことなど、ススハキの日の他になかったからです。

 いよいよ、大晦日になると朝から母と祖母は祝いぜんの御馳走(ごちそう)作りです。子どもたちは、一年中で一番のごちそうが次々と出来ていく様子を見ながら、午後3時半ごろに食べる年越(としこし)の食事を待っていました。今考えるとそれほどのものではないのですが、当時としては大変な御馳走でした。
 私の家では、真っ白な御飯(通常は7分つきで胚芽(はいが)のついた米)のご飯、塩しゃけの切り身、卵焼き、きんぴら、のっぺ、黒豆の煮豆、昆布巻き、それに飼いウサギの肉の吸い物と豆腐の味噌汁という献立でした。
 この日は、家族全員が午後の3時頃に風呂に入りました。一年中で明るいうちに風呂に入るのは大晦日と15日の小正月、春の節句のショウブ湯の日だけであり、子どもたちにはとても楽しみなことでした。
 また、大みそかの日に家族全員でカルタなどができることは、当時の子どもたちにとっては大事件のようなものでした。大人の家族を仲間に入れてカルタや双六(すごろく)をするなどということは、この大晦日以外は決してなかったからです。そもそも、親に自分たちの遊びに加わってもらえるなどとは、当時の子どもには考えられないことだったのです。
 それのみか、子ども同士でも、正月以外にカルタ遊びなどはするものではないという暗黙(あんもく)の決まりのようなものがありました。

  しかし、正月のうちは、子どもたちは連れ立って友達の家を周り歩いて、カルタや百人一首、双六を楽しみました。カルタはトランプの他に干支(えと)合わせのようなものもあったと思います。
 それから、十五日の小正月には色々な正月行事がありました。花木かざり鳥追い柿の木ぜめもぐら退治などでした。中でも忘れられないのは鳥追いです。鳥追いでは、朝暗いうちに起きて軒先(のきさき)でトタン製のミ(大型チリトリ)を棒で叩いて「ヤッホー、ヤッホー鳥追いだ」などと大声で叫びました。
 また、その日の朝は小豆がゆを食べ、残ったかゆを庭の柿の木の幹をナタで傷つけ「なるか、ならんか、ならんと、たたききるぞ」と言うと、もう一人が「なります、なります」などと言いながら傷口に小豆粥(あずきがゆ)を塗りつけたものでした。柿の木は寿命が長く毎年実なりが良かったので、大抵の家では屋敷内に植えておきました。柿の木は、毎年確実に果実を収穫できたので、果樹として石黒では貴重な木でした。

 石黒では、時には一晩に1m以上の降雪があることもありました。そんな時には、学校から3km近く離れた集落の中学生は、数人の大人がカンジキをかけて道をつけて学校まで送り届けました。学校に到着するのは2時間目に入ってからのこともありました。(小学生は冬季は分校があってそこに通って勉強したのでした)
 このように厳しい冬も2月の下旬になると、みんなが待っていた春の気配がしてくるのでした。