秋    

 第2学期が始まり、少し憂鬱(ゆううつ)な気分で登校した子どもたちも、久しぶりに全員が顔を合わせると、わけもなく楽しい気分になりました。
 そのうえ、2学期が始まると間もなく、子どもたちが待っていた黒姫神社本社の秋祭りがやってくるのです。
 9月1日の祭礼には、たくさんの出店が並び、相撲大会や演芸大会なども行われました。
 学校も、その日は午前で放課となるのでしたが、この日は一時間目から先生の話などは上の空で、時々聞こえてくる神社の太鼓の音ばかりが耳に入りました。
 ようやく、下校の時間になると皆が急いで家に帰りました。そして、昼飯を食べて、仲間と誘い合って急いで神社に向かいました。
 神社の広い境内(けいだい)には、おもちゃ屋など数軒の店が出ていました。水を張った大きな桶の中でラムネのビンが木漏れ日を反射して青い光を放っています。店先に並んだおもちゃのピストルが白銀の光を放っています。子どもたちが、買った玩具の笛や百連発銃の音がしきりに聞こえます。奉納舞い(鵜川村の綾子舞)も行われ、村人たちも大勢集まり、境内は都会さながらのにぎやかさです。私たちはそんな雰囲気に酔いしれ、献灯(けんとう)に火がともるまで遊んでから帰宅したものでした。
 また、9月15日にはいくつかの集落の秋祭りがありました。その時には、青年団が自ら楽団を編成して演芸会を行う集落もありました。楽団は、ドラム、アコーディオン、ギター、バイオリンと本格的なものでした。出し物も、歌や踊り、タップダンスまであり、今でもその様子をよく覚えています。そのころの青年団活動はとても盛んでした。

  終戦直前、日本の主な都市は激しい爆撃をうけ焼野原となりました。そのため、働き場を失った人や戦地など外地からの引き上げ者が多く、昭和27年頃までの青年団員は大変多かったのです。一軒の家に2~3人の団員がいることもそれほど珍しいことではなかったのでした。それだけに村の青年団活動は活発でした。
 今、それらの活動記録を読んでみると、アメリカの占領政策よる新しい考え方を受け止め、生活改善運動などに取り組んだ活動は、とてもレベルの高いものであったことが分かります。
 9月15・16日の「十五夜まつり」と呼ぱれた秋祭りが終わると、村人たちはいよいよ、稲刈りの準備に取りかかります。まず、ハサ(刈り取った稲をかけて乾かす仕掛け)作りをします。そしていよいよ、稲刈りが始まります。
 子どもの仕事は、刈り取った稲をハサのある場所まで運ぶことでした。車道もない時代ですから、牛馬の背か人間の背中に担いで運ぶほかありません。牛や馬のいる家は少なく、大抵の家では背負って運びました。
 また、ハサ場は日当たりのよい小高い場所に作られることが多く、坂道を背負いあげることが少なくありません。背負いミノを着て、荷縄(になわ)で稲を背負って、時には急な坂道を這(は)うようにして上るのでした。※稲の背負い方
 こうして運んだ稲は、すぐハサに掛けます。そのときに稲をかける役は大抵父親であり、稲束(いなたば)を投げ渡すのは子どもの役目でした。ハサは、縄を横に7~8段に張り、縦縄で吊って支えて作られているのです。小学生の高学年でも、7段以上の高さまで投げ渡すのは容易なことではありませんでした。
 こうして、ハサに掛けた稲が1週間ほどで乾くと、それを外して家に取り込む仕事があります。これを「稲上げ」と呼んでいました。
  稲上げは、晴れた日の午後でないとできません。朝露が完全に蒸発するまでは待たなければならないからです。そのため、稲上げは大変せわしない仕事でした。まず、ハサの下にムシロを敷いて、その上にハサから外した稲束を落とします。それを8把(わ)ずつ束ねます。そして家まで背負って運ぶのでした。稲束は生の時に比べて乾いて軽くなっていますので生稲の三倍ほど背負うことができました。
 しかし、今度は家まで運ばなければなりません。近い田でも数百m、遠い田は3kmも離れていましたから並大抵の事ではありませんでした。
 当時はリヤカーも普及していませんでした。石黒の農道は坂道が多くその上、道幅が狭かったのでリヤカーを使えるのはごく限られた場所だけでした。
 2kmもある山道を稲を背負って通る道には、所々に「休み場」と呼ぶ荷を背負ったまま休める場所が作ってありました(子ども用の休み場もあった)。荷が重く、つらいときには次の休み場に到着することばかりを考えて歩きました。
 ようやく休み場に着き、背負ったままで稲を休み場の段の上に置くと、荷縄で締め付けられていた胸に一気に空気が入ってくるのが分かりました。そこで、赤とんぼの飛び交う様子を眺めたり、遠くで聞こえる時期外れのツクツクホウシの鳴き声など聞きながら2~3分休むと、また歩き出すのでした。
 この稲上げの作業は、1年間の農作業で最もせわしない作業であったと思います。とくに、夕方から雨になりそうな時には家族総出(そうで)で、まさに「猫の手も借りたい」とはこのような時の事だと子どもながら実感したものでした。そんなわけで、当時は乾いた稲をまず家の中に取り込み、私の家ではさらに二階に上げて積み上げておきました。そして雨の日など、足踏み脱穀機で脱穀をしたのでした。
 初雪は、11月中旬ごろに降ることが多かったのですが、まだハサにかかった稲が残っていることも稀にはあったことを憶えています。
 私が中学生の頃、ホウノキ山という500mほど離れた作場(さくば)に植えた大根の収穫前に初雪がふり、雪を掻き分けての収穫となったことを覚えています。抜き取った大根は7~8本を一束にしてツナギで束ねて、3束を交互に積み重ねて荷縄で背負って7回ほど家まで運びました。初雪の積もった上り下りのある山道は滑りやすく、背中の荷も安定しないので苦労したことが忘れられません。
 大抵の年の最後の屋外作業は、カヤ(ススキ)刈りでした。当時のかやぶき屋根をふき替えるには非常にたくさんのカヤが必要でしたので、村ではカヤ講(カヤたのもし)が行われていました。カヤは、屋根の部分的な修理や雪だなを作るときにも必要です。そのためにも一定量のカヤは毎年自分の土地でも刈って貯えておいたのでした。刈り取ったカヤは円錐(えんすい)状にまとめておいて翌年の春に家に取り込むのでした。
 この作業は家族総出の作業でした。晩秋のよく晴れた日を待って行いました。その時のことで忘れられないのがお昼のお弁当でした。
 そのお弁当はワッバ(薄いヒノキの板を曲げて作った、深いフタ付きの弁当箱)にご飯を入れて持っていき、そのフタの中に畑に残しておいた新鮮な大根を鎌で薄くスライスして入れ味噌を加え、深山の湧き水を入れて冷たい味噌汁にして飲むのでした。私たちは、それを「冷やし汁」と呼んでいました。
 この冷やし汁とワッバ飯の美味しかったことは、今でも夢に見るほどです。また、晩秋の陽(ひ)だまりの中で、遠くの白い山々を眺めながら家族全員で食べたこの日の昼食の記憶は、今でも映画の一場面のように私の心に浮かびます。
 このカヤ刈りが終わると、石黒の厳しい冬が始まるのでした。