夏の子どもの遊びでは、何といっても川遊びが一番でした。石黒川は鯖(さば)石川の上流にあたり、小岩峠、黒姫山に、その源流があり、川は、深い谷間を流れ、急流が多く変化に富んでいます。
 私たちは、幼いころからこの川で遊んできたのです。特に夏になると水かさも減って、子どもたちが遊ぶには最適な場所となりました。
 私たちは、毎日のように川に出かけて、魚を釣ったり、手で捕らえたりして遊びました。
 今と比べると、川に棲(す)む生物の種類は豊富であったと思います。ハヤ、ウグイカジカ、ドジョウ、コイ、フナ、スナヤツメ、カワガニ、エビなどもいました。
 小学校の3、4年の頃は、使い古しの竹ザルをもって川に出かけました。そして、川岸のカワバタヤナギなどの株の下に、ザルをそっと差し込んですくい上げると、ザルの中にハヤやドジョウなど色々な水生生物が入っていました。ザルをすくい上げる瞬間のワクワクする気持ちは、今でも忘れられません。
 大抵の場合、カジカは流れの速い浅瀬の石の周りを棲(す)みかとしています。石の下流側に片手で竹ザルを当て、もう一方の手で上流の石を動かすと、カジカがザルに流れ込むので簡単にとらえることができました。捕らえたカジカは、串にさして囲炉裏で焼いて食べるととても美味しいものでした。
 また、高学年になると、釣り竿を使ってハヤやコイをつることに熱中しました。とはいっても当時は、釣り道具も自家製です。竿は、屋敷に植えてある「メダケ」の中で釣り竿に適した竹を探します。
 糸は、母親の針箱から木綿糸を持ち出して使いました。シズミ(重り)は、小石の中からヒョウタン形の物を探して、真ん中の凹みの所に糸を巻いて取り付けます。浮きは、ススキの古い茎(くき)を7㎝ほど切り取り、片方の端に割れ目を入れ糸を通して使いました。これだと、上下に動かしてウキ下の長さも容易に調節出来るのです。また、ススキの茎の内部はスポンジ状で浮力(ふりょく)がありウキには最適なのです。釣り針だけは、買い求めたものを使いました。友達同士で交換し合ったりして、いろいろな針を使いました。
 それから、中学生になると誰が教えたのか、主にクリの葉を食べるクスサンと呼ぶ昆虫からテグスを取り出すことを覚えました。この毛虫は、最長15cmほどになり、その重みのためか自然に落下しているので、拾ってきて使いました。時には木に登って振るい落しましたが、地上に落ちた毛虫の方が良い糸が取れたことを覚えています。おおよそ5~6匹拾って来れば足りたので、地上に落ちた虫の中で大きめなものを持ち帰り、腹を引き裂いて、ハルサメのような絹糸線(けんしせん)を取り出し、それを酢の中に1~2分浸します。そして指でしごくと、絹糸線がおよそ5倍ほどの長さのテグスとなります。それを数本つないで釣り糸にしました。その糸のつなぎ方も先輩から教えてもらったことを覚えています。今にして思えば、私たちは本物のテグスを使っていたのでした。
  針や糸が川底の流木に絡まると、釣り針は貴重品だったため、素裸になって水に入り必死の思いで取ったものでした。テグスは作れても、釣り針だけは作れなかったからです。
 釣りのエサはミミズかアシナガバチの幼虫でした。現在に比べ当時は、雁木(がんぎ)のひさしや、小杉の枝にアシナガバチの巣がたくさんあったように記憶します。まず、あらじめ蜂が作り始めた巣に、目をつけておきます。巣穴に白いフタがされ(この中の幼虫はすでに蛹(さなぎ)なので、魚釣りのエサにはならい)、まだ親(成虫)が2~3匹しかいない頃が最適でした。後になるほど、成虫が多くなり巣を取るときが大変なのです。蜂とのかけひきはスリルがあり、毎年数回は刺されました。刺されると15分ほど、かなり強い痛みがあります。現在ではハチ毒アレルギーの人もいるので注意が必要です。
 その他、水田にいるタニシの内臓(ないぞう)の一部も使いました。私たちは、その部分を雄の生殖器(せいしょくき)と信じていましたが、ほんとうかどうか今もってわかりません。とにかく、小さな子をたくさん持っている雌の体内には見られない臓器(ぞうき)でした。
 他には、ブドウ虫とかヤナギ虫などを使いましたが簡単には手に入りません。とくにカワバタヤナギの幼虫は最高でしたが、川岸で木を割いているところを大人に見つかるとひどく叱られました。ヤナギは護岸の役目を果たしていたからです。
 川魚は釣るばかりではなく、直接手でも捕まえました。これを私たちは「よ(魚)をねじる」と言っていました。川の中の大きな石の下の隙間(すきま)にそっと両手を入れて、そこに潜んでいるハヤを捕まえるのです。つかむときの感触の良さは経験した者にしかわかりません。とくに、「まんぞう川」(松沢川)には、源流の板畑方面から流れてきたと思われる大きな石があり、水も少なく格好の場所でした。
 私たちは、高さ100mものV字形の深い谷の中、子どもの背丈の3倍もあるオオイタドリケナシミヤマシシウド、葉の長さが1m余もあるイワスゲ(タヌキラン)に囲まれて、魚とりに熱中するのでした。まるで昆虫目線の景色のようでした。時には大きなカワガニに指を挟まれることもありましたが、それもスリルの一つでした。
 しかし、夏にも家の手つだいはたくさんありました。子守りやお盆前の家の周りの草取り、畑や田の畔に植えられた大豆の草取りなど、夏休みの日課となっていました。いわば当時は子どは、それなりに家の労働力として当(あ)てにされた存在であったのです。ですから農繁期に、遊んでいることは子ども自身にとっても恥(は)ずかしいことでした。
 しかし、春の彼岸(ひがん)から秋の彼岸までは、大人の生活に昼寝の習慣がありました。昼食後の1時間余、家の中や家の周りで遊ぶことは、昼寝の邪魔になるため禁じられていました。私たちは神社などにも行きましたが、夏は大抵川遊びに出かけました。
 もちろん当時は学校にプールなどないので、各集落の子どもたちは近くの川で適当な場所を見つけてみんなで「みざぶり-水浴び」をして遊びました。私たちの集落には15mほどの高さの滝があり、滝つぼは広く周囲が平らな岩の「釜淵(かまふち)」と呼ばれる格好の場所がありました。
 今から考えると、ほんとうに恥かしいことでありますが、私たちは水に入るときにはパンツまで脱いで周囲の木の枝にぶら下げて置き、素っ裸で入りました。男の子はみんながそうでしたから、恥ずかしいという気持ちは少しもなかったのでした。そこでは、小学生から中学生まで数人ずつで魚やカニを捕まえたり、泳ぎの練習をしたりとそれぞれが楽しい時間をすごしました。


 そして、誰も腕時計などもっていませんでしたが、大人の昼寝が終わる頃になると、川遊びを止めて滝つぼから細い道を上って帰路につきました。細い道を上りきると急に滝の音がセミしぐれに変わり、ふと我に返ったように午後からの家の手伝いを思い出しました。
 夏休みは私たちの時代も楽しく待ち遠しいものでしたが、その過ごし方は今の皆さんとは大分異なっていたようです。私たちの頃は部活とか子供会の行事はありませんでしたが、このように家の仕事の手伝いが毎日ありました。
 小学校の中学年のころから子守りや飼いウサギの世話、庭の草取りなどをし、高学年になると畑や畔豆の草取り、家事では風呂の水くみと風呂焚(た)きなど様々でした。とくに、朝早くから10時近くまでの夏の炎天下での畑の草取りはつらいものでした。この時期には、まだ大豆も丈が短く雑草の中に隠れているので、ついつい大豆まで引き抜いてしまいます。これが畑の場合はごまかすことができるのですが、畔豆の場合は一列に同間隔で植えられているためそうはいかず、時々見つかり叱られることになります。
 皆さんは、夏休みになると「涼しいうちに勉強しなさい」と言われるでしょうが、私たちのころには「涼しいうちに仕事をしなさい」と言われたものでした。

 
 風呂の水くみは、私の家では手押しポンプで行いました。井戸は20m余りも離れた所にあり、深井戸用のポンプは長い柄のついたかなり重いもので、力を要する仕事でした。まず、呼び水を入れてから、操作するのですが30分ほどかかったように記憶しています。さらに、祖母が夕方いないときには風呂たきの仕事も言いつけられました。
 ふろがまは焚き口が長く煙突がないため、油断をすると手前で火が燃えているだけで、肝心のかまの部分まで火が廻らないということがありました。
 当時、私の家で飼っていた家畜は、馬、ヤギ、ニワトリ、ウサギでしたが、子どもの仕事は主に飼いウサギの世話でした。飼いウサギは、正月に肉を食べるために2~3羽飼っていました。ウサギには、毎日エサとなる野草を取ってきて与えました。子どもたちは、どんなに遊びに夢中になっていても帰るときにはウサギのエサを抱えていました。とくにウサギが好んで食べるのはアキノノゲシハナニガナオニタビラコクズヤクシソウツルマメヤブツルアズキヤマニガナタンポポオオバコなどでした。遊びの途中でも夕方になるとこれらの草を見かけると奪(うば)い合うようにして採(と)ったものです。最も素早く簡単に採れるのはクズの葉でした。つるをたぐり寄せて葉をかきとってくればよいのですから。また、野草の量が足りないときにはヤマグワの葉を少し混ぜましたが、大人から「多く食べさせてはいけない」と言いきかされていました。
 エサやりの他に、ウサギの世話には飼い箱の中を2週間に一度ほど、掃除してやる仕事がありました。掃除は、ウサギを外に出して、一人は見張りをし、二人が箱を家の敷地内の畑へ運び、堆肥(たいひ)つみ場に敷き藁や残した餌を空けてくるのです。
  今、皆さんが使うペット用の餌の場合はウサギに水を与えますが、当時は水を与えませんでした。野草を与えると水を飲まなくても多量の尿をするのです。敷き藁(わら)替えの時には独特の悪臭があり、今でも思い出すほどです。※飼いウサギの思い出
 また、当時の子どもと飼いウサギとの関係は、ペットとしてのウサギとは異(こと)なるものでした。私たちにとって、ウサギはお正月の御馳走に肉を食べるための家畜でした。もちろん、かわいらしいと思うこともありますが、ウサギと自分の関係は、「私とあなた」とではなく、「私と物」に近い関係であったのです。ですからお正月が近づくと大豆などの栄養価の高いものを少しずつ与えて脂(あぶら)肉をつけます。ですから、まるまると太ったウサギを見ると、つい、美味しそうだと思ってしまうことさえありました。
 私は、今にしてこのことに気が付いて、「人間の他との関係の在り方」の重大さに気が付いて衝撃(しょうげき)を受けました。
 ともすると私たちは、人間同士でも「私-あなた」ではなく「私-物」という関係の上に生きていることもあるのではないでしょうか。今、イラクとクウェートで戦争が起こっていますが、個人にせよ国にせよ、互いが「私-物」の関係ではなく、「私-汝」の関係にあるなら、殺し合いの戦争など起きないと思います。
 横道にそれましたが、ほかには、ニワトリを十数羽飼っていましたが、この世話は祖母の仕事でした。ただ、2ケ月に1回ほど茶碗の欠けたものを金づちで細かく砕いて、ニワトリに与える仕事は私の役割でした。
 これは、消化器官の砂嚢(さのう)の働きをよくするためのものと思われますが、砕いた瀬戸物を与えると奪い合うように食べたものでした。
  また、それが数か月後には角の丸くなり糞とともに出てくることにも驚いたものです。海岸に打ち上げられる角が取れているガラスの破片のようなものです。
 その他、時には、高学年になると馬の草も刈り取ってくることも言いつけられましたが、これは、主にススキでした。ススキは当時はカヤ葺(ぶ)き屋の材料として大切な植物であり、自分の土地以外のものを勝手に刈ることはできません。私は中学生のときに一度、地続きの他家の土地のカヤを刈り取ったため、翌日、父親に連れられて持ち主の家に謝りに行ったことを憶えています。
 夏休みはこのように家の手伝いもありましたが、楽しい遊びもありました。小学生のころ、朝、まだ暗いうちに友達とブナ林にセミ捕りに出かけました。村はずれのその林は数百本のブナの大木が茂り昼間でも薄暗い感じがするほどの大きな森でしたが、私たちは、その林で幼虫(モゾモゾと呼んだ)が羽化する様子を、時々観察したことを覚えています。その神秘的な自然の営みは何度見ても感動したものでした。
 また、お盆も楽しみな行事でした。どこの家でも御先祖の霊(れい)を迎えるために家の周りの草取り作業に精を出しました。これは年寄りと子どもの仕事でした。
 いよいよ、お盆なると、村には大勢の帰省客がやってきました。14、15日の夕方は、村はずれにある墓場までの道が墓参りの人々で連なるほどでした。道の途中で久しぶりの出会いで立ち話をする人々も多く一気に村が活気づいた感じです。
 また、15、16日の夜には村の神社の境内で盆踊りがありました。子供たちは、早くから行って踊りの始まりを待ったものです。踊りは、普段より早い夕食が終わる8時ごろから始まりました。ビデオ盆踊り大会
  踊りの輪は、次第に大きくなり、二重、三重になり、見物人も多くなりました。東京などからの帰省客も多く、にぎやかな中に都会的な香りが漂(ただよ)うような雰囲気もあり、踊りには加わらない子どもたちは、ただ、そこにいるだけで楽しく感じられるのでした。
 踊りは、数人の音頭取りが交代で「ションガイヤ」「甚句(じんく)」と歌い、10時ころに終わりの太鼓が連打されて散会となりました。
 お盆が終わると、帰省客(きせいきゃく)も次々と帰り、村はいつもの静けさを取り戻しました。ツクツクホウシが鳴きススキの穂が出始め、いよいよ夏も終わりに近いことを子どもたちは感じ取るのでした。