春   

 ふるさと石黒の春は、冬が長く厳しいだけに特に待ち遠しいものでした。
 待ちこがれる春の兆(きざし)の一つは、雪の上に小さな小さな雪虫が現れることでした。2月の下旬、雪が降り止み、積もった雪が水を含みスキーの滑りが悪くなる頃、雪の上に胡麻(ごま)粒ほどの大きさ、または、その半分もないほどの小さな虫が現れます。私たちはこれを「えきみし→ゆきむし」と呼んでいました。
 もう一つの兆しは、村を囲む山々に雪崩(なだれ)が起きることでした。雪崩は気温の上がった昼間に多く起こりました。雪崩は、かすかな地響きとともに急斜面の低木をなぎ倒しながら、まるで濁流(だくりゅう)のようにふもとに向かって流れ落ちるのです。時にはふもとの川をのりこえて、村の家々の近くまで押し寄せました。
 こうして山々には褐色(かっしょく)の地肌が現れ、待っていた春が訪れるのです。
 4月になると、私たちは、暖気で固くしまった雪の上を歩いて、よく山遊びに出かけました。はふ(斜面にできる雪のない部分)には、マンサクの黄色い花やユキツバキの赤い花が目立ちます。また、1m余もある一面の残雪の中で開いたブナの若葉が春風に「サワサワ、サワサワ」と鳴り、葉を包んでいた苞(ほう)が雪片のように舞落ちてきました。
 地肌の出た山の斜面には、早くもカタクリショウジョウバカマがつぼみをつけています。それら草木の発する香りと土の甘い匂いが私たちを包み、まるで別世界にタイムスリップしたような気分にしてくれました。
 私たちは、懐かしい地面に腰を下ろして一足早い春を満喫(まんきつ)するのでした。
 帰りには、フキノトウアサヅキなどを採って家に持ち帰りました。そして。夕飯に、フキノトウ味噌やアサツキを実にしたお汁などを作ってもらい、家族そろって待ちに待った春を味わうのでした。
 そのころになると、私たちは家の周りの雪が解けるのを待ち切れずに自分の家の庭先の雪消し(除雪)に精を出しました。そして畳(たたみ)数枚分ほどの地面を出して男の子はビー玉や釘立て、女の子はワットビ(輪跳び)などをして遊びました。
 ビー玉をするときは、地面の上に腹ばいになって相手の玉にねらいをつけて指ではじきました。そんな時に嗅ぐ土の匂いは、私たちが半年のあいだ待っていた懐かしい土の香りでした。※土の香り
 4月になると暖かい日が続き、残雪も一日一日目に見えて少なくなっていきます。庭の残雪にスコップで割れ目を入れてやると、一段と消え方が早くなります。大人も子どもも家の周りの雪けしに精を出しました。
 このころになると、褐色だった山肌が、うっすらと緑がかってきて、日々その濃さを増してきます。
 ブナ林が多い私たちの村では、大雪の年には1mあまりの残雪の中でブナが一斉に芽吹きました。
 南国からツバメが帰ってくるのもこの頃でした。ツバメは昔から縁起(えんぎ)の良い鳥として、どこの家でも喜んで迎え入れました。ほかの野鳥たちも繁殖期を迎え、盛んにさえずりだします。大人も子どもも長く厳しい冬から解放された喜びが、言葉や表情にあふれています。
 村人たちは「はこもっこ」と呼ぶ箱ぞりを使って、新しい土を残雪に覆われた田の上に運びひろげました。田の土質を改良するためと、雪の消え方を早めるためでした。
 こうしている間にも、山々の木々の芽吹きが進み、淡い様々な色が溶け合って美しい色合いを見せます。とくに、それが朝夕の斜光の中では言い表すことのできないほどの美しい眺めとなります。
 そして、5月に入ると、さまざまな色に山々が彩られ、次第にそれらが一様の緑色へと移り変わって下旬にもなると、深緑に覆われ村全体が薄暗くなったような感じさえします。
 ホトトギスの鳴き声が、昼夜を通して聞こえるのもこのころです。
 私たちは、村の道や友達の家の庭先、神社などに数人づつ集まって、日の暮れるまで遊びました。女の子に限らず男の子にも、背中に赤ん坊をおぶった者が多くいました。それらの子どもは、午後の3時頃になると遊びを止めて、負ぶった子どもに母親の乳を与えるために家(あるいは野良仕事の作場)に帰っていくのでした。
 そのころの男の子の遊びは、ビー玉、くぎ立て、輪回し、メンコ、陣取り、輪跳びなど様々でした。
 
 5月の中旬に入ると、いよいよ農繁期(のうはんき)に入り、学校も1週間ほどの「田植え休み」に入ります。とくに、農繁期に入ると高学年以上の子どもは、労働力としてあてにされる時代でした。
 三本ぐわで「田打ち」をしたあと、鋤(すき)で打ち返した土の塊を細かくする「田こぎり」という作業があります。その後、「田かき」が始まると男の子の出番がやってきます。それは、「鼻っとり」と呼ぶ仕事でした。
 鼻っとりは、馬や牛の鼻につけた2mほどの木の棒の先を持ってマングワがむらなく田全体を平らにするように誘導(ゆうどう)する役目のです。
 昔の石黒の田の多くは天水田(てんすいでん)と呼ばれる雨水に頼る田で、水がたっぷり張られています。ですから、マングワの通った跡が残るわけでもなく、隙間がないように馬を誘導することが、子どもにとっては難しいことでした。
 しかし「尻っとり」と呼ばれる、馬が引くマングワを持って操作する大人には、水が一瞬押しのけられてマングワの通った跡が見えるため、隙間ができる度に注意されるわけです。はっきり言うなら怒鳴りつけられるのです。私の経験では、慣れないうちは正面の畔(あぜ)の草を目当てに必死に歩いたことを今も忘れません。
 とはいえ、子どもにとって膝まである泥水の中を歩くことは、ただそれだけでも大変なことでした。中には小学校4年生くらいから鼻っとりをさせられる子どももいました。
 馬の方も、疲れてくると歩き方が乱暴になり、歩調が乱れ時々、水を蹴上げるようにして歩くようになります。馬と並んで歩く子どもは、そんな時に顔まで泥水をかけられることもしばしばありました。とくに、畔(あぜ)近くで馬を方向転換させるときには注意が必要でした。
 馬は利口な動物ですから、いろいろな手を使って休んだり反抗したりします。その一つは大小便を少量ずつに分けてすることです。この時ばかりは、尻っとりも叱るわけにもいかず苦笑いしていたことをおぼえています。
 また、夕方になり疲れてくると隣の田に移るときに幅30㎝以上もある畔を前足で踏み、さらに後ろ足でも踏むのです。これも口のきけない動物の、尻っ取に鞭(むち)でたたかれることを覚悟の上の反抗であったと思います。
 また、これは、私の家の馬ではなかったのですが、田かきの最中に田の真ん中で、馬が前足を折りたたんで腹ばいになるような動作をしたのには驚きました。尻っとりの「逃げろ」という指示で、私は棒を放り出して逃げました。眠るときにも立ったままの馬が、田の中で横たわる姿はとても異様(いよう)で、びっくりしたことを今でも忘れません。この馬は何でも、競走馬の血が混じった馬で、飼い主の人しか使えないという噂の馬でした。

 
 んな仕事が2日も3日も続くのですから私たち子どもにとって、とてもきついことでした。夕方、仕事を終えて家に帰る頃には、長い日も暮れかけていました。私たちが家に帰ると祖母はいつも玄関先まで迎えに出て、ねぎらいの言葉をかけてくれました。馬にも「おまえも、ご苦労じゃった。ようした、ようした。」と人間に話しかけるように声をかけていました。そのあと、「馬たらい」という楕(だ)円形の大きな桶(おけ)に水を張って、馬の足など念入りに洗ってやっていました。また、馬のエサも普段とは異なり、大豆などをたくさん入れた特別なものをあたえていたようです。
 鼻っとりの子どもの方は、疲れきってしまい8時頃の夕飯を待てず、ありあわせのものを食べて眠ってしまうこともありました。
 こうして、田かきが終わると、いよいよ田植えがはじまります。
 田植えには、毎日、4~5人の女の人が手伝いに来て1週間ほどで終わりました。その時の私たち子どもの手伝いは、女の子は「苗取り」、男の子は「苗運び」と「小苗(こなえ)うち」と呼ばれる仕事でした。苗はあらかじめ田全体に投げておきますが、足りない分を田植えをする人に苗を投げ渡すのが小苗うちの仕事なのです。この仕事は5m以上離れると少し投げるのにコツを要する仕事でした。受け取る相手が腰のあたりでキャッチできる投げ方がベストなのでした。顔の高さでは苗の水滴が顔にかかってしまいます。また、手の届かない近くの水面に落ちると、泥水をはねああげ衣服が汚れることなります。しかし、コツを覚えると手伝いの中では楽というより、キャッチボールのように楽しさを感じる仕事でした。
 また、田植えの頃のことで思い出すものに「ホウノキごはん」があります。これはホウノキの葉を2枚を十字形に重ねて中心にきな粉を敷いてその上に暖かいご飯をおいて、上からもきな粉をかけて葉で包み硬く握り、柄と葉の先端の部分をまとめてスゲで結わえたものです。
日の長い頃の作業であった田植えの午後3時半頃、これをおやつに食べるのです。これを石黒では「中飯-ちゅうはん」と呼んでいました。
 田の畔にみんなでソデナシミノを敷いて腰を下ろして食べるのでした。タニウツギの花が咲きウグイスやホトトギスの鳴き声の中、大勢でにぎやかに食べたこの中飯のことは今も忘れられません。また、ホウノキごはんと塩のきいたタクアン漬けはとても合うものでした。
 
  こうして、ようやく田植えが終わるのは6月の半ばで、この時は大人ばかりか私たち子どもも、ほっとした気持ちになるのでした。
 このころになると、村は鬱蒼(うっそう)とした深緑に覆われ、間もなくヤマボウシの白い花が咲きはじめます。石黒城山の頂上付近には、珍しいほどのヤマボウシの大木があり、今でも開花期には当時と同様、見事な花を咲かせています。
 そして間もなく梅雨に入ると、子どもたちの屋外での遊び場は限られてしまいます。雨の日の日曜日などは、よく村の神社が遊び場となりました。小さな神社でしたから社殿(しゃでん)の中には納まらず、縁の下や天井張りの上で遊びました。とくに、神社の床は高く床下を子どもが中腰になって歩けるほどでしたのでとても楽しい遊び場でした。
 床下の土は乾いていて陣取りや釘立て、ビー玉などもできました。土台柱の周りにはアリジコクの巣がいくつもあったので、アリを入れてはアリジコクが土の中に素早く引っ張りこむ様子を観察したものです。
 また、この季節になると多くの野鳥が巣作りをします。私たちは、そのヒナを捕まえて飼うこともしました。(
※現在では無許可で野鳥を飼うことは法律で禁止されています-鳥獣保護管理法)
 シジュウカラヤマガラカケスアカショウビンカルガモ、その他、カラスやフクロウまで飼う子どももいました。私は、家の近くの沢で全身が赤いアカショウビンのヒナを30分も追いかけて捕らえた時のことが今も忘れられません。ふだんよく見られる鳥で捕まえる事のできなかったのは、カワセミ、サンコウチョウ、オシドリくらいなものだと思います。その他、ヤマウサギの仔(こ)も捕らえて飼いましたが考えられないほど狭い隙間から逃げてしまうことに驚いたことを忘れません。
 春は、私たち子どもにとって、四季のうちで最も楽しい季節であったように思われます。