昔の暮らしの中における餅文化



 T 石黒の昔の暮らしと餅

 石黒村に限ったことではないだろうが、昔は、正月村祭り、祝い事、その他、大切なお客を迎える時には、必ずといってよいほど餅をついた。

 正月の餅は、暮れの29日を避けて27日か28日につく家が多かった。
 この日は、朝、暗い内から釜戸にかけた蒸篭〔せいろ〕から湯気が立ち上り、家中にもち米のふける香りが漂った。
 餅は1臼5升で4〜5臼ついたので、朝飯前に一臼ついてから夕方までかかった。この両日は一日中、村中の家々から「ドン、ドン」というの音が聞こえたものである。
 餅つきでは、最初についた餅から、丸い形の「お供え餅」をとった。お供え餅は鏡餅をはじめ仏壇や神前、土蔵に供えるものの他に、年始に親類へ持参するためのものもあり、20個以上は作ったものである。
 また、集落によっては、二年参りで神社に餅を供える習慣もあった。供えた餅を元旦朝に食べると歯が丈夫になると昔から言い伝えられた。

 正月の2度目の餅つきは13日か14日に行う家が多かった。〔集落によっては13日は忌避する習慣があった〕この日ついた餅から花飾りの花餅も作った。花餅は棒状に伸ばした餅に5本の箸を押し付けてくぼみをつけて輪切りにして作った。その他、ヌイゴの先に搗き立ての餅を指でつまんで付けて稲穂をかたどった。これらを翌日の15日に木の枝に飾り付けて大黒柱やトウミなどに飾り付けた。

 3月21日の彼岸の中日にも餅をついた。お供え餅をつくって仏壇に供えた。また、居谷集落などでは米団子を作って供える家もあった。米団子は白米を石臼で挽いてこねて、8個つくり4つづ左右に分けて供えたものだという。

 4月の春祭も必ず餅をついた。4月半ばとはいえ、大抵の年は2尺〔約60cm〕近い残雪があった。とはいえ、村の社の裏山のブナは芽をほころばせ、山の斜面にはフキノトウも芽を出す。気の早いツバメが南国から到着する頃でもあった。
 待ちに待った早春の祭りの餅つきは、正月の餅つきとはどこか異なった華やぎがあった。餅は大方の家では、宵祭りの4日の午前についた。お供え餅は、家の神仏と村の神社に供えた。

 6月の月遅れの端午の節句にも餅をついたり牡丹餅をつくる家もあった。宵節句の4日は、ショウブヨモギを束ねて入れたショウブ湯をたてた。村の道端で暗くなるまで遊んでいる子どもたちも、この日は日暮れ前に引き上げ一番風呂に入った。餅をつきショウブ湯をたてて子どもの健やかなる成長を祈願したものであろう。

  集落によっては7月1日から2日までを「田休み」と呼んで、餅をついて「休み日」とした。ついた餅は神棚と仏前に供え、家から嫁いだ近くの子どもや兄弟を招いてご馳走をして食べた。この休みは、田打ちから始まった植え付け作業が田植えでようやく終わったところで体を休める生活の知恵でもあったのであろう。

8月のお盆にも餅をついて仏壇に供えて、オショウライ様を迎える家が多かった。夏の餅はどこの家にもあった横井戸の中に入れて保存したものだという。
 
9月の秋祭りは、ようやく残暑もおさまる頃で、秋風が渡る水田の稲穂も実り始める頃である。
 秋祭りの餅は、お供え餅の他は、カビの発生を防ぐために笹餅が昔から作られた。チマキザサを十字に重ね餅を包んだ。餅に張り付いた笹の葉が空気を遮断することでカビの発生を防いだ。
 餅にササの香りが移り、焼いて食べると微かにササの香りがして絶妙な味わいであった。

 10月の下旬には、集落によっては刈り上げの餅をついた。9月の下旬に始まった過酷な仕事である稲刈りがようやく終わったことを祝う餅であった。
 しかし、取り入れは半ばであり、猫の手も借りたいほど忙しい稲上げ作業が目の前にあった。刈り上げの餅は、収穫を神に感謝するとともに、多忙な日々の連続の中につかの間の休息をとり、続けて頑張る体力を養う餅であった。

 集落によっては、11月に馬の血とりの後で餅をついた。これを「馬餅」と呼んだ。馬餅は各自がもち米を一升ずつ持ち寄って、アンコ餅や黄粉餅、雑煮餅にして食べたという。
 当時の馬は、農耕馬として現在のトラクターの役目をする大切な家畜であった。血とりは、稲の運搬も終わり、その年の馬の出番も終わったところで獣医を招き、蹄鉄をはずし足の手入れをしたり、馬の健康管理を行ったりして、人馬の息災を祈願するための行事であった。
 
 その他、餅は子どもの誕生祝など、祝い事には欠かせないものであった。また、集落によっては葬式にも餅をついて、段払いの際、斎米をもらった家へトキブクロに入れて礼返しする慣例があったという。
 また、遠来の客を迎えたときにも餅をついて歓待した。今日のように色々な食材が手に入る時代ではなかったため、餅が唯一のもてなしであった。
 昔は大家族であったせいもあるが、一軒の家で7〜8俵のもち米が必要であったという。

※ 米の粉をこねて蒸した団子や粽〔ちまき〕を餅に含めるなら、餅の文化はもっと年中行事との関連が深まるであろう。



U 日本の餅文化の歴史と考察


1 餅の名前の由来について

餅という言葉の語源については次のような諸説があるという。
1 餅の語源は「モチイイ」すなわち「粘る飯」の意味
2 「もって歩ける飯」の意味
3 台湾語の「モアチイ」が「モチ」になった
4 満月のことを望月〔もちづき〕、望月の「もち」が「餅」になった
 どの説にもそれなりの説得力はあるが、餅が米の一料理法として生まれたという観点から考えるなら、1〜3の説が正しいように思う。
 しかし、餅が初めから神事に使われるものとして生まれたものなら4の説が説得力があるように思われる。
 わが国に縄文時代後期に渡来した伝えられる赤米は、餅米に近い粘る種類である。私も、板畑集落で栽培している赤米を食べてみたがまさに餅米そのものである。
 縄文人は、この赤米を常食にしていたわけではなく、やはり特別な時にだけ食べたものであることは間違いない。具体的には祭事で粢〔しとぎ→水に浸した生米をつき砕いて、種々の形に固めた食物。神饌(しんせん)に用いる〕として使われたものではなかろうか。
 近郷でも多く発見されている火炎土器〔縄文中期の祭事の器〕との関連も様々な想像ができる。平安中期に編纂された延喜式には、祭具として臼一口、杵二枝があげられている。
 いずれにしても、わが国においては、餅は古代より神事と深く関わりのあるものであったことは明らかな事実である。
 以上のような理由から、私は4の由来を基に、乏しい資料ではあるが、自分なりに考えてみたい。


2 鏡餅について

 初めに、鏡餅が発祥した時代は何時であるかということだが、手元の資料が少なく分からない。
 ネット上の資料によれば「奈良朝の頃から、鏡餅が神に供える物として用いられ・・・」。とある。また、国史大事典の「餅」の項には「奈良時代は円形を最高の形として神聖視し餅は切ることすら忌んだ」との記述がみられる。そのほか、ネット上の資料に「鏡餅を飾る風習は、紀元前の垂仁天皇の時代云々」の記述もみられるが、これは史実性に乏しいように思われる。
 これらの資料から、奈良時代か平安時代かということになるが、国史大事典には、「餅が正月の祝儀として用いられるようになったのは平安時代からである」とされている。
 確かに、平安時代に書かれた源氏物語には、鏡餅についての数々の記述が見られる。その中には、現在の鏡餅に通じる「餅鏡」についての記述もあり、当時は「餅鏡〔もちひかがみ〕」あるいは「鏡」と称して、正月、餅を丸く平らにつくって飾って、拝むことで生活の安寧を祈ったとのことだ。この餅鏡を「正月様」と呼んだという記録もある。
 いわば当時の餅鏡は、古代から祭祀の道具として使われた鏡の持つ神秘性を籠めたものであったのであろう。
 現在のように神前に供えた餅を鏡開きと称して食べることによって神の加護を得るという事よりも、どうやら、この時代の餅鏡は神に供え、餅鏡そのものを拝観することに重きを置いたことは確かなようだ。
 いずれにしても、平安時代に中国から歯固めの風習が伝わり貴族の間で鏡餅の神事が行われるようになり、室町時代に入って武家にひろまり、江戸時代になって庶民にまで広がり、さまざまな変遷を経ながら今日まて伝わってきたものであろう。
※ ただ、鏡餅あるいは餅鏡は、歯固めの儀礼の風習が中国から伝わってくる以前に我が国にすでに存在していたものかどうかという疑問が残る。さらに調べてみたい。

 昨日、図書館から借りてきた、佐原真著「食の考古学」によれば、古墳時代から伝わる持ち運びのできる竈形土器〔かまど〕が竪穴式住居から出土したことから、次のような考察〔岡山大学・稲田孝司氏の論文「忌の竈と王権」より〕を紹介している。
 竪穴住居からは備え付けの竈と移動できる竈の両方が発見されている。稲田氏によれば、移動式竈は日常の煮炊きではなく、祭祀の場での煮炊きに使われたものであることは色々な資料により論証できるという。
 つまり、当時、日常のケの煮炊きは備え付けの竈で行い、祭儀とかかわるハレの煮炊きがこの移動式の竈で行われていたということである。
 この事と、稲が日本に渡来したのが縄文晩期である事を考えると、餅米が祭事に使われた歴史の長さには、ただ驚くばかりである。


3 雑煮について

 餅を、祭事と切り離した一つの食文化と見るとき、最初に頭に浮かぶものはなんと言っても雑煮であろう。
 雑煮の語源もいくつかの説があるが、いろいろな食材を一緒くたに煮るという「雑煮」あるいは「煮雑〔にまぜ〕」が一般的であろうと思われる。
 しかし、石黒に伝わる雑煮は具をあまり多く入れないようだ。私が子どもの頃に食べた雑煮の具は、白菜、ニンジン、ゴボウくらいなものである。
 だが、私の妻の故郷である見附市の雑煮は、非常に具が多く入る。まさに「雑煮」の名に相応しいものである。どうやら、これが日本では一般的な「雑煮」であるようだ。
 ところで、柳田國男の「稲の日本史」によれば、雑煮は「年越しの夜に神を迎えに行った祭りの直会〔なおらい〕として、神事にたずさわった人々が、神に供えた飲食物を分かち食べた儀式から変化したもの」とされる。
 この文から、意外にも、雑煮も神事に関わるものであった事が分かると共に、雑煮の具が多い理由も釈然とするように思う。つまり、神前に供えられた餅とともに数々の野菜や魚を入れた料理になったであろうことは容易に想像がつくからだ。
 この由来から考えると、子どもの頃に石黒で経験した二年参りで神社に供えたお供え餅を元旦の雑煮に入れて食べた事も由緒にかなったものであったことが分かる。


3 その他

 まず、今日でも全国的に伝わっている餅が関わる代表的な伝統行事の一つに、子どもの誕生祝いがある。その歴史を調べるに、誕生祝いは、古くは、生後一年目に行う儀礼ではなく、妊娠祝いから生後百日前後までの新生児をめぐる諸儀礼の総称であったという。〔国史大事典〕
 また、平安時代の誕生祝いについては、当時の日記や記録に多くの記述があるという。その記述の中には、当時の貴族は子どもが生まれると50日目と100日目に餅をついて盛大に祝ったとあり、50日目には、子どもの口に柳の箸で餅を含ませるという行事も記されているという。いわば、稲と柳の生命力にあやかり、赤子が健やかに力強く育つことへの祈りが籠められた風習であったのであろう。
 乳幼児の死亡率が高かった昔は、誕生祝いは子どもが健やかに育つことを祈願する意味が大きかったのは当然である。

 稲作儀礼と餅の関係については、前半で記述した石黒の年中行事で、すでにその関係は明らかである。




V まとめ

 このように、遠い昔から酒と並んで餅は、祭りや行事のお供え物、特に吉事に欠かせないものとして日本人の生活に密着していたことが分かる。
 餅は、我々日本人にとって、ハレの日の単なるご馳走の献立の一つではなく、太古の昔から特別の意味を持つ存在であったといえよう。
 つまり、常に病や天災に脅かされた生活の安寧安泰を祈願するために餅をついて、大いなる存在〔神仏〕に供えるという信仰的一面があったのである。
 いわば、日本の餅文化は、日本人の信仰心と深く結びついて発展してきたものとみることができる。


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                           〔文責 大橋寿一郎〕

参考文献  国史大事典 吉川弘文館
        柳田國男全集 筑摩書房 
        食の考古学 佐原真著 東京大学出版会
        餅博物誌 古川瑞昌著 東京書房
        http://www.randdmanagement.com/c_bunka/bu_103.htm
        http://www.pref.nara.jp/snorin/nogyohukyu/03samit