2   月

     
      元     日
 
 当時は月遅れの正月であったので、元旦(2月1日)を毎年、深い雪の中で迎えた。5メートルを超える豪雪の中で迎える年もあった。
補記−古代の正月−大正月と小正月
 元日には、家族全員が早起きをして村の神社に初詣に行った。
 一番乗りを競う風習もあり、薄明るくなるのを待って村人は神社に出かけた。
 山笠をかぶりヒロロミノをまといカンジキをはいて、膝まである新雪をかきわけ、やっとこさ社殿にたどり着くこともあった。

 
下石黒 黒姫神社 

 前日の夕方、コワリキ手間で(補記→コワリキ)前もって道付けは行われていたが、夜半にドカ雪に見舞われることもあったからだ。
 板畑集落では、大晦日に神社に夜参りに行き、凍てつくような社殿に朝まで籠もる習慣があった。厚着姿で燭台のローソクの明かりの下で、カルタや双六に興じながら初詣の参拝者を待った。
資料→おこもりの思い出
 また、寄合集落では、大晦日の12時が過ぎるのを待って初詣に行き、神前に供えたモチを朝の雑煮に入れて食べた。このモチを「ハガタメ」と呼び、これを食べると歯が丈夫になると言い伝えられた。 

初日の出 板畑 嶽

 まれにではあるが晴天の元旦に恵まれ、初日の出を拝める年もある。白銀の山から金色の太陽が昇ると遠い尾根のブナ林がすっぽりと大きな日輪の中におさまり、浄土を垣間見る想いさえする。
 初詣から家に帰ると元旦の祝い膳が待っている。お膳は大方の家が澄まし汁の雑煮であった。雑煮の具は家により多少異なるが、ネンジン(人参)、ゴンボウ(ごぼう)、豆腐、ねぎ、白菜、シロイモ(里芋)、それにウサギの肉か鶏の肉が入った。
(補説→飼いウサギ)
資料→飼いウサギの思い出
資料→鉄砲うちのこと
資料→飼いウサギについて
 まずは、家族全員が仏壇と神棚を拝んでからお膳につく。家長は、祝い酒を恭しく盃に注ぎ、この日ばかりは家族全員にすすめる。子どもたちもほんの少し注いでもらっておそるおそる口にする。
 おごそかで華やいだ雰囲気の中に、新たな時の流れが始まる。
 朝食後、しばらくすると年始客が訪れ、新年の挨拶が交わされる。年始ズイモン(吸い物)が出され、お酒が出る。

「さぁさあ、オジサ、まぁ、えっぺぇ(1杯)飲んでくんなせぇ」

  「やぁあ、もうしゃけねぇですのう、んじゃ遠慮なしにえただきます」などとやっている内に次の年始客がやって来る。
しばらくすると最初に来た御客は、引き留められながらも
「おめぇさん、まあ、よっくりごっつょになって・・・」などと言い残して帰っていく。そうこうしている内にまた次の客の御来訪となる。
(村年始は、たいてい三が日の内に行われ、2日と3日とに行う集落が多かった。手みやげはオアカシ(御明し)とタオルやワラグツなどが多かった。板畑では、本家や世話になった家に元日の午後から酒を手土産に新年の挨拶に行く習慣があったという。また、ツトッコにご馳走を入れて持参する習慣もあったが、元旦に使うツトッコは、ワラを2つ折りにして作らず両端をまとめて縛る作り方であったという
(※→古老の話では一部の集落でこの習慣があり、おそらく「折る」ことの縁起から来たものであろうとのこと)
 子どもの友達も遊びにやって来る。こたつを囲みカルタや双六を始める。カルタは、干支の動物の絵合わせなどが多かった。子どもたちにも、熱い甘酒やコウセンが振る舞われた。

石黒農業協同組合〔昭和30年頃〕

 コタツでの遊びに飽きた子どもたちは連れだって外に出て、羽根つきやズイナベ(雪の滑り台)を作って遊ぶ。男の子の中には、ドブツ(雪の落とし穴)を作って一杯機嫌の年始客を落して面白がるいたずら者もいた。
 石黒では、昔から元旦に金を使うと一生貧乏すると言い伝えられ、決して買い物には行かなかった。当時、石黒で商店といえば上石黒の「えびす屋」とクミアイ(農協)の売店くらいのものだった。
 
また、正月三が日に喧嘩をすると、一年中喧嘩をしていなければならないと子どもたちは厳しく言い聞かされた。
資料→年始客の思いで
資料→オナンショ(女衆)たちの正月
資料→子どもの頃の正月の思い出(中後-高柳村)



    仕事始めと年始
 
 2日は、「仕事始め」と呼び、大人はワラ仕事、子供は書き初めを午前中に行なった。仕事始めには、藁をたたいてスベナワやコデナワを綯(な)う家もあれば、ワラグツを作る家もあった。
 昭和の初めころまでは、どこの家でもこの日、朝飯前に仕事始めの藁仕事をしたものだというが、昭和30年(1955)ころになると行わない家も多くなった。

 ほかむら(他集落)の親戚への年始回りは、たいてい2日から行われた。峠を越えて他村の親類に出かけるときは、吹雪に遭っても耐えられる身支度をして泊まりがけで出かけた。
大豪雪の昭和2年(1927)
(補記→昭和2年の豪雪)に居谷集落から中後集落に年始に行き、豪雪のため10日間も帰ることが出来なかったこともあったという。
 どこの家でも、年始客は10日ごろまで毎日のようにあり、正月らしい賑やかな日が続いたが、お客のまかないを1日中しなければならないオンナショ(女衆)は大変であった。(一般に年始は11日正月までとされていた)
 昭和20年(1945)後半になると、各戸で日を決めて年始客をまとめて招待する「年始よび」が行われるようになった。日取りは重ならないように親類同士で調整して決めた。戦後まもなく始まった農村生活改善運動の一環であった。
 さらに、昭和30年(1955)代には、村の集会場で共同年賀を行うようになり、年始よびの習慣は消滅した。
 また、寺年始は、2日に行われる地域が多いが、石黒は菩提寺が遠くにあったため
〔補記→石黒の菩提寺〕正月には行わず、3月の春回檀の折りに年始としてお金を包んだ。



      七日正月
 
 7日には、七草を入れた塩味のカユや雑煮モチを食べる習慣があった。七草と言っても冬の最中に野の草というわけにはいかない。石黒では、越冬用のニンジン、ゴボウ、大根、ネギ、白菜などあり合わせの野菜をもって七草とした。
 これを食べると、一年中達者で過ごせると言い伝えられた。また、集落によっては、これを怠ると田に雑草が生えると伝えられた。 
 七草は、深い雪に閉じこめられた長い冬の暮らしの中で、待望の春の到来が遠くないことを想わせる嬉しい行事でもあった。



     十一日正月

 石黒では、十一日正月が、大正月(おおしょうがつ)の最後の正月であり、仏壇や神棚に供えたオソネェモチを下げた。下げた餅は、その日の朝に小豆粥の中に入れて食べる家が多かった。
 また、この日を「クラビラキ」とも呼び、土蔵のある家では家長が土蔵の戸を開け、酒を入れた徳利に杉の葉をさして蔵の入り口に供え、クラノトメェ(戸前)で御神酒を飲んで繁栄を祈願する風習もあった。
 晦日に土蔵の中にお供え餅を供える風習のある集落では、この日にお供え餅を下ろして食べた。
資料→11日正月の思いで



   小正月(十五日正月)

 小正月(14日〜16日)には、農事にちなんだ行事がいくつかあった。
 
  鳥追い
(補記→鳥追い)

 15日の明け方、どこの家でも子どもが門口でカナミや板などをたたいて鳥追いをした。
 子どもたちの元気な声が、凍てつくような夜明けの村の静寂を破った。

稲の鳥も、ほうーほう。粟の鳥も、ほうーほう。
豆の鳥も、ほうーほう。
みんなの鳥も、ほうーほう。
佐渡島へ飛んで行け、ほうーほう。(上石黒)
 

ヤッホー、ヤッホー 鳥追いだ。
苗代の田の畔で、子持ち鳥が鳴いていた
なぜなぜ鳴いていた。
腹が、へったと鳴いていた。
15日のアツケェ(小豆粥)食って、逃げろ、逃げろ(下石黒)
.
ヤッホー、ヤッホー 鳥追いだ
あっちの鳥も、たーて
こっちの鳥も、たーて
豆の鳥も、たーて
稲の鳥も、たーて
(その他色々な作物名をいれて歌う)
佐渡島へ、みんな行け (落合)

おらナガシロに、へえぇるな、へえぇるな
えぇると 焼いて喰うぞ
よそへ飛んで行け
そーら、そーら(居谷)

寄合では拍子木をたたきながら
「稲の鳥も、アワの鳥も
佐渡島へみんな、たって(飛んで)行け、
ホァー、ホァー」 (寄合)

板畑ではカナミやコスキを叩きながら「ホァー、ホァー 」と大声で叫んだ。

※ 明治の初め頃までは、最大の害鳥は今日(2004)絶滅の危機にあるトキであったという。当時石黒ではトキを「ドゥ」と呼び、小正月の鳥追い唄に「えっち(一番)、にっくい(憎い)鳥は、ドゥ」などと歌われたと伝えられている。
資料→小正月の思い出
資料→大正時代の正月行事の思い出
資料→旧高柳町の鳥追い行事について
 


    さいの神(ドンドヤキ)
 
 村の中の平地を選んで、高さ6メートル近いブナの若木と青竹を心棒にして、藁束をグミ縄で巻き付けて高い塔を作った。
 そして、塔に四方から火をつけると勢いよく燃え上がった。
 心棒の回りに添えられた青竹が威勢の良い音を立ててはじけた。
 その火で、大人は松飾りやシメ縄、子どもは書き初めの紙を燃やした。書き初めの燃えがらが高く舞い上がるほど字が上手になると言われた。 

さいの神 〔2008.1〕

 また、生木や山竹の先に餅やスルメをぶら下げて焼いたり、灰の中に入れて焼いて食べた。これを食べると1年中病気をしないと言われ、保存して置いて風邪が流行った時に食べる家もあった。
 しかし、昭和の初めには、どの集落でもさいの神は行われないようになった。
 その後、昭和の終わりころになって、学童生徒が中心になり村人も参加して学校のグラウンドで再び行われるようになった。(上写真)
 しかし、平成7年には石黒小中学校も閉校となり、現在(平成14年)では公民館行事として石黒爽風苑(小中学校跡)の広場で行っている。
 また、板畑集落では、大昔、新田氏の残党であった祖先が村で行ったさいの神の煙を開戦のノロシと見間違えられ敵軍に攻められて以来、さいの神は一度も行わなかったと言い伝えられている。             



     モグラ退治

 「モグラモチドンは、どこへ行った。
ヨコヅツ様のお通りだ」

などと言いながらワラ縄に横ヅチを結び、家や土蔵の周りや畑の上を引き回した。
 
寄合集落では、子どもが、ヨコヅチに縄をつけて雪の上を引きながら「モグラモチもぐすとかっつぶすぞ」と唱えながら引くと、大人がヨコヅツの後に続いて、箕(み)に囲炉裏の灰を入れて「長虫(へび)、長虫、ここらにいると目が危ないぞ」と唱えながら家のまわりを回った。
 
しかし、積雪が多い石黒では、この行事を行う家は少なかった。



     柿の木責め

  柿の木責めは、15日の朝、小豆がゆを入れた鉢を持つ者とナタを持つ者の2人で行った。主に子どもたちが行う家が多かった。
 一人がナタで柿の木などの果樹に傷を付け
「ナルカ ナランカ、ナラント、ナタデ、タタッキルゾ」
と言うと、他の一人が
「ナリモウス、ナリモウス」
と言って切り口に小豆がゆを塗りつけた。
 この問答が、サルカニ合戦のそれに似ていて子どもたちは面白がってやった。
 雪の多い石黒で果樹と言えば柿、栗が主で他はスモモか梨くらいのものであり、いずれも雪害を防ぐために大木仕立てであった。したがって、3メートルほどの積雪でも木の幹は雪の上に十分出ていた。春になって地上から見る木責めの傷跡は見上げるほど高かった。
 成木責めは、樹皮を刺激することで結実を促すという科学的根拠もあるといわれる。
資料→柿と子ども



     花木かざり
 
 13日には、餅をつき花餅を作る。翌日の14日に近くの山から枝振りの良いダンゴノキ(ミズキ)かヤマモミジの枝を切ってきて、それに紅白の花餅や稲穂餅をつり下げた。

 花餅は、棒状に伸ばした餅に5本の箸を押しつけ凹みをつけて5mmほどの厚さに輪切にして作った。食紅を使い紅白の花餅を作る家もあった。
 また、束ねた5本のヌイゴ(稲穂の茎)の先に、つきたての餅を指先でつまみ取って付けて稲穂をかたどり枝につるした。
 そのほか、村の行商から小判や大黒様などの飾りせんべいを買って下げる家もあった。
 花木は数本作り一番大きいものは、ジョウヤ柱(大黒柱)に、小さいものはトウミなどに飾ってその年の豊作を祈った。
 それらの花木は、二十日正月に取り払い、花餅は煎ってアラレにして食べ、枝は囲炉裏で燃やした。

資料→花木飾りの思い出
資料→花木飾りの思い出2  



    その他の風習

 
 15日の朝、囲炉裏の中に足を入れると苗代にカラスが入ると言い伝えられた。
 板畑集落では、「女が足を入れると大根が二股になり、男が足を入れるとトウが立つ」といわれた。
 いつもは、朝起きると囲炉裏端に直行する子どもたちも、この朝ばかりは囲炉裏に近づかなかった。集落によっては、五徳やワタシのような足の付いた囲炉裏の用具も使わなかった。
 また、この日は箒を使わないという風習があり、座敷の掃き掃除は行わなかった。(「払う」を忌む商家の風習が伝わったものであろうか)
 15日の夕飯は、大晦日と同様のご馳走をつくり明るいうちに食べた。
 ただし、この日には、大晦日のトシトリにはない次のような風習があった。
 家族全員が席に着くと、温かいご飯の盛られた茶碗に各自がテショ(小皿)で蓋をする。しばらくおいてご飯にかぶせた小皿を取って傾け、しずくを垂らす。そのしずくの数が多いほど長生きできると言われ、子どもたちは面白がって大声で数えたものであった。
 また、垂れるしずくの数でその年の作柄を占う集落もあった。しかし、この慣習は、集落の中でも行う家と行わない家が半々くらいであった。
 居谷集落では、15日、朝、暗いうちから、村人は神社に行って境内に祀ってある本尊様を掘り出し、昼に家で小正月の祝い膳を食べてから一家そろってお宮参りに行ったという。お宮参りの帰りに大人は、思い思いの家に寄ってお茶飲みや宝引きなどを楽しんだ。
 子ども達もこの日は、午後と夜に友達の家に集まり百人一首やカルタなどをして遊んだ。



  モコ泊まり(藪入り・16日)

 16日には、嫁が婿と連れだって実家に泊まりに行った。これを石黒では「モコ泊まり」と言った。
 婿は2晩ほど泊まって帰ったが、嫁はエンノコヅイタチまでに帰ればよいと言われ、月末まで泊まることが多かった。



     二十日正月

 二十日正月は、正月の最後であり、石黒では「終わり正月」とも呼んだ。

 
親がヒモを縒る 

 とくに、行事はなかったが花木飾りを片づけ、ご馳走を食べて一家で祝った。(この日、花木を片づけないと稲刈りが遅くなると言い伝えられた)
 また、女衆も年始客のまかないからようやく解放され、数人で集まり、お茶のみをしたりホビキ(宝引き)をしたりして楽しんだ。(集落によっては二十日正月を「女正月」と呼ぶところがある)

 
親がヒモを皆の前に出す 

ホビキは、原則として6人でやる遊びで、1人が親となり他の5人が子となる。親が6本の宝引き縄を手前でより(写真上)、その中の1本に宝引き玉を結びつける。6本の縄の先を子の5人の前に出す。(写真中)各自が張り銭を出す。張り銭は普通1円(およそ今日の10円相当)であった。
 

宝びきの玉

親が前に出した縄の先を各自が選んで握る。残った1本は親の分である。各自が縄を引くと、よりがとけて宝引き玉を引いた人が分かりドッと喚声が上がる。玉を引いた者は張り銭を全部もらい次の親となる。
 親が再び玉を引き当てれば、引き続いて親となり張り銭は倍額になる。3度続けば張り銭は3倍となる。
 雪に閉じこめられた長い冬の娯楽としては、ルールも簡単で誰にでもできる遊びで人気があった。
 今日まで伝承されて生き続けている、数少ない大人の遊びの一つでもある。

資料→昔の居谷の正月
資料→宝引きの思い出
資料→正月の行事一覧



  寒九のカボチョ(かぼちゃ)

寒九(寒に入って9日目)にカボチャを食べると中風にならないと言われ、どこの家でもカボチャ汁やカボチャの煮付けを食べた。寒さの厳しい石黒では、この日までカボチャを保存することは容易ではなかった。(味噌玉のように座敷の上につるすなど保存の工夫をした)
 また、寒九過ぎにカボチャを食べると腫れ物ができるという言い伝えもあった。



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