飼いウサギについて

 昭和30年代の半ばまでの石黒では、大抵の家で飼いウサギを1~3羽ほど飼育していた。
 飼いウサギは現在のようにペットではなく、食肉用としての飼育であった。だから、子ども達がペットとしての愛情をもって接するのは手の平にのるほどの子ウサギの頃だけであったと思う。
 しかし、ウサギの飼育は大抵の家では子どもたちへの役割分担であった。2~3羽ともなると餌となる草の採取も容易ではなかった。道端は草一面であるが、何でもウサギの餌になるわけではない。人間の目には実に美味しそうに見える草もウサギが食べないものが多いのだ。のみならず、村の道端には牛でも殺すほどのヤマトリカブトなども多い。
 とはいえ、子ども達は飼いウサギが好んで食べる草類は、心得ていたから夕方になると道端や遊び場で目についた餌は獲得しておくのだった。数人で争ってアキノノゲシなどを採ることもあった。
 主な、餌にはその他、クズの葉、ハナニガナオニタビラコアキカラマツオオバコノゲシフキカラムシタンポポなどだった。また、食べさせてはいけな野草としては、キツネノボタンタケニグサなどがあった。
 子どもにとって、もっとも優れた餌は、アキノノゲシやクズの葉であった。オオバコやタンポポなどはどこにでもあったが入れ物を持参することはなかったので持ち運びが不便であったからだ。
 秋になりサツマイモ堀りの頃にはサツマイモの蔓を与えると非常によく食べたが、与え過ぎるとガスが腸にたまり死んでしまうと言われていたので留意して与えたことも憶えている。
 飼いウサギの世話には、餌を毎日与えることの他にウサギ小屋の掃除があった。
 大方の家では横縦60㎝×50㎝、高さ50㎝ほどの四角の木箱で前面に金網を張った箱の中で飼育した。箱の上方は2枚の板を置いて石などをのせて固定していた。子どもは餌をくれる時にはその片方の蓋を開けて与え、忘れずに重石をしておくのだった。
 箱の中には底の部分には2把ほどの藁を敷いてやり、毎日の餌の余りと糞がたまるので半月に一度ほど掃除が必要であった。現在のペットのウサギには水を与えるようだが、もっぱら野草が餌であった当時はウサギに水は与えることなど考えられないことであった。
 しかし、ウサギの排尿量は相當なものであり、子どもの頃の筆者などは水を盛んに飲む鶏が尿をせず、水を飲まないウサギがどうしてこのように多量の尿をするのか不思議でならなかった。箱の下に厚くたまった悪臭のする敷き藁を変えてやる度に、その思いが頭をよぎったことを憶えている。
 敷き藁替えのときには、兄弟で箱を庭先まで運んで、箱の中のウサギを庭に放してから、敷き藁を引き出して崖に捨てるのであった。外庭に出されたウサギは、縁の下などに迷い込まないように必ず一人が見張りをしているのであった。
 掃除の終わった箱には新しい敷き藁を敷いてウサギを入れて、元の場所にもどした。醤油色の尿がしたたる程の古い敷き藁を替える、このいやな飼育箱掃除も終えて新しい敷き藁の上にウサギを戻してやると、何となく自分もさっぱりとした気分となったものだった。
 また、飼いウサギに自家で子を産ませることもあった。我が家に雄ウサギはいなかったので、春のころ発情して雌ウサギの耳が熱くなると、交尾させるために雄ウサギを飼っている家を訪ねてまわった。雌ウサギをテゴにいれて担いで行って、「ウサギをかけさせてください」と言うと、その家の人が「どれどれ、診てみよう」とその家のウサギ箱のふたを開けて雄ウサギの耳を握ってみて熱いと「よし,盛りがついているようだ」と言って持って行った雌ウサギを箱に入れてくれた。
 そんな場合は雌の方も尾を上げ、スムーズに交尾へと進展した。子ども心に憶えている交尾の様子は、「キーッ」という鳴き声とともにオスがのけぞって転び失神する状態で「ドン、ドン」と後ろ足を痙攣させるように箱の底を蹴るのであった。
 だから特に見ていなくとも、このような音が2回ほどすれば交尾完了の合図であると心得ていた。しかし、雄が発情していないと、一緒にしても雌だけが積極的になり雄は逃げ回るという事態となるのであった。
 こうして交尾後、4週間ほどで子ウサギが産まれた。出産近くなると親ウサギは藁と自分の毛を使って箱の隅に巣をつくるのだが、子どもの頃の筆者には、ウサギが自分の毛を抜いて作るということに驚いた。ふつうの状態の毛を無理やりに抜くのだと思ったからだ。だが、実際は出産が近づくと毛が自然と抜けやすくなるのであろう。

 ウサギの子が生まれると、しばらくは大人が世話管理をすることになり、子どもが勝手にふたを開けて見ることは禁じられた。まだ、毛の生えそろわないうちに見ると親が子を食べてしまうといわれた。確かにウサギは習性上、生まれて間もない子を触られたりするとストレスのために子を食べると言われているが、当時もそのような事例があったのであろう。
 こうして無事に生まれた子ウサギは自ら草を食むことができるようになるまで飼ったがこの時期の子ウサギは可愛らしく子ども達にはペットでもあった。その時期に、自家で飼う1~2匹を除いて希望する家に譲ってやるのであった。こうして村中でお互いに子ウサギを譲り合う事に因って毎年、各家が必要な子ウサギを手に入れることができたのであろう。
 飼いウサギの肉は、ほとんどが正月の料理に使われた。特に年始客の多いうちでは数羽のウサギが必要であった。飼いウサギの外に猟師が捕ったノウサギやヤマドリも使われたがノウサギの肉は食味が悪く、ヤマドリは捕れる数は少なく正月に合わせて注文をしておいても求めることは難しかった。
 いよいよ、料理にに使う正月が近づくと飼いウサギには、栄養の豊富な餌を与えた。大豆などを適量あたえて、肉に油がのるようにつとめた。筆者の家では、粉餅を一日おきくらいに半分づつ与えたことを憶えている。
 こうして、丸々と太ったウサギをみると、早く肉を食べたいと思ったものであった。こうした気持ちは現在の子ども達には到底分かってもらえないものであろうが、肉が一年に数回しか口に入らなかった時代では普通の心情であったといえよう。
 また、もともとペットとしてではなく、その肉を食べるための家畜として飼ったのであるから当然であったともいえる。 (ちなみに、当時は家畜が多く飼われ、筆者の小学生の頃の我が家には、馬、綿羊、ウサギ、鶏、猫がいた)
 こうして、年の暮れになると、解体して肉にしたが、自家でする人もあり、村の猟師や解体を特技とする人を頼む家もあった。筆者の家では、ウサギや鶏の解体を頼まれて専門にする人がいたのでその人を頼んだ。殺したウサギの片足を縄で縛り、雪棚の上からつるしておいて脚の部分から皮を剥いでいくのであるが、見事な手さばきであった。初めから終わりまで子どもの頃に何回も見て手順は覚えたが、その後、筆者は鶏は何度か解体したが、ウサギの解体は、したことはない。
 我が家で頼んだ人は、解体料として毛皮を持ち帰るのが常であった。持ち帰った毛皮は鞣(なめ)して売るとそれ相当の金になったのであろう。また、自家で鞣して子どものチョッキなどに縫い付けて着用することも多く、筆者も着たことがあるがとても暖かいものであった。
 さて、解体した肉は、月遅れの正月で、大寒の最中であったから、みんじょ(台所)などは常に冷蔵庫以下の温度であったが、我が家では、雪棚の脇の雪の壁に横穴を堀りそこに保存して置いたことを憶えている。
 解体した直後の子どもが楽しみにしていたのは、肉をきれいに離した骨を煮て、だしを取った後の骨をもらって付着している肉を食べることであった。
 しかし、敗戦前後(1945前後)の食糧難のころにはその骨も石の上で金槌で細かく砕いて小さな団子状にして煮て食べたこともあった。美味しかったが翌日の大便排泄のときに苦労したことを憶えている。
 とにかく、当時の石黒では、肉といえば飼いウサギの肉か廃鶏の肉であった。豚肉などほとんど口に入らなかったし、牛肉などを見たこともなかった。昭和30年代まではこのような状態であったので、飼いウサギはほとんどの家で飼われていたのであった。そしてその飼育担当は大抵の家では子どもであったというわけである。
 今にして思うと、子どもにとって飼いウサギの世話は、家での手伝いとしては、教育的な価値も大きかったのではないかと思う。現代の子どものようにペットとしての愛情はなかったが、毎日、餌を与えることや月2回ほど敷き藁替えなど兄弟が協力して継続して果たすことは、それなりに責任感を身に着ける効果は大きかったのではないかと思う。
 夕飯を食べてからウサギの餌を与えなかったことに気が付いて懐中電灯をもって家の周りで草をとって与えたことも今でも忘れられない思い出の一つである。

 (編集会 文責大橋寿一郎)