高柳町の縄文遺跡の位置と名称 
   
 番 号    遺 跡 名
 1 宮田山遺跡
   鯖石川右岸段丘上
 2 甚兵衛平遺跡 
   鯖石川右岸の段丘上
 3 岡田十二平遺跡 
  鯖石川右岸の狭い段丘上 
 4 上の山遺跡 
  貞観園背後の水田地帯の広さ1haほどの場所 
 5 戸野原遺跡 
  鯖石川の西へ半島状に突き出した段丘上 
 6 西原遺跡
  鯖石川右岸の広い段丘上
 7 田屋原遺跡
  鯖石川右岸の尾根状段丘上 
 8  高尾十二平遺跡
  鯖石川左岸の段丘 
 9  平林遺跡
  鯖石川右岸の段丘上

 10  坪野平遺跡
  鯖石川左岸の尾根状段丘上
 11 石皿出土地
  門出集落内 
 12  兎田遺跡
  石黒川と鯖石川の合流点 

①これらの遺跡は遺物から判断するに縄文時代前期半ば、今から約6000年前のものと思われる。

②高柳地区の遺跡で最も大きなものは岡野町の貞観園の上に位置する「上の山遺跡」でその広さは1ha余である。

③高柳地区の遺跡の殆どが鯖石川沿いの河床より40~50mの段丘にある。とはいえ当時の鯖石川上流の河床は現在に比べてかなり浅かったものと推測される。

④出土の品は土器と石器であり土器はその形態の多様性から現在の県内に留まらず広い地域との交流があったことが分かる。

 
 




果実・種子や葉や 根茎を
食用にでき る柏崎の主な
草木一覧

 
 
樹木
※左文中記載の樹木は除く 
 
 1  カシワ 
 2  アカガシ 
 3  クサギ 
 4  ナラガシワ 
 5  ネマガリタケ 
 6  ハマナス 
 7 ヤマフジ
 8 マタタビ 
 9  マテバシイ 
10 モミジイチゴ 
11  ヤマウコギ 
12  ヤマボウシ 
13  アキグミ 
14  シラカシ 
15  サンシュウ 
16  サンカクヅル 
17  サルナシ 
18  コシアブラ 
19  コウゾ 
20  ケンポナシ 
21  ヤマクワ 
22  カジノキ
23  カジイチゴ
24  カクミノスノキ 
25  エビヅル
26  アブラチャン 
27  タニウツギ 
   
野草 
1  アオミズ
2  アオゲイトウ 
アカザ
4  アサツキ 
アマドコロ 
6  アレチギシギシ
7  イガホウズキ 
イタドリ 
イヌガンソク 
10 イヌビエ 
11 ウシハコベ 
12  ウド
13 ウマノミツバ
14  ウワバミソウ
15  エゴマ 
16  オオウバユリ
17 オオナルコユリ
18 オオバギボウシ 
19  ユリワサピ
20  オカヒジキ
21 オシダ 
22  オトコエシ
23 オニドコロ
24 オニユリ
25  カタクリ 
26  カタバミ
27 クズ
28  キクイモ 
29 クサソテツ 
30  ケイヌビエ
31  コオニユリ 
32  ゴマナ 
33  サラシナショウマ 
34  サワアザミ 
35  シロザ 
36  スイバ 
37  セリ 
38  ゼンマイ 
39  ソバナ
40  ツリガネニンジン
41  ツルマメ
42 ナズナ
43 ナンテンハギ 
44  ナンブアザミ 
46   ニリンソウ
47  ノアザミ
48  ノビル 
49  ハハコグサ
50  ハマエンドウ 
51  ハマボウフウ 
52  ヒシ
53  フキ
54  ベニバナボロギク
55  ミズ 
56  ミツバ
57   ハコベ
58  ミヤマイラクサ
59  ミョウガ
60  モミジガサ
61  ヤマトキホコリ
62  ヤマノイモ
63 ヤマユリ
64 ユリワサビ
65 ヨモギ
66  ヨメナ 
67 ワラビ
   
 
 
              初 歩 的 考 察 の 試 み
 高柳町史によれば高柳地区には現在までに上記の場所で縄文遺跡が発掘されており、その出土品は土器の形、紋様から縄文中期のものであるといわれている。
 では、縄文中期とはいつごろ、どのような時代であったのだろうか。
 縄文時代の時代区分には諸説あるようだが、最近では約1万6000年前から2300年前までとするのが一般のようだ。さらに、この時代は「草創期・早期・前期・中期・後期・晩期」に6区分されて扱われる。一見、細かい区分に思われるが単純に6等分して、1区分の長さを算出してみると2033年間となる。実に、その長さは弥生時代の後期から現代までの年数に匹敵することに驚く。
 また、縄文時代のように1万年以上の長い時代となると当然、気候の変化も顕著なものがあったと思われる。WEB上のデータによると、縄文草創期の気候は前時代の氷期(約7万年前~1万年前)の最盛期に比べ、かなり温暖化が進んでいたが依然として寒冷な気候であったといわれている。具体的には現在より海面が十数メートルも低かったということだから、一口に「寒冷」といっても桁違いの寒冷である。
 しかし、その後、縄文早期→前期とさらに温暖化が進み、中期には海面が現在より2~3mほど上昇し関東地方の内陸まで海岸線が侵入したとされている。また、海面上昇により陸続きであった北海道とサハリン、及び本州と北海道が離れてしまった。一方、南では、それまでほぼ閉じた状態に近かった対馬海峡が大きく開き、そこからどっと対馬海流(黒潮)が日本海に流れ込んだ。流れ込んだ対馬海流は日本海を北上し、津軽海峡を通り抜け太平洋に流れ出て、本州北部を南下する海流構図となった。これにより、暖流が日本列島を取り囲むような状態となり、温暖で四季のはっきりした日本特有の気候が形成された。同時に、わが故郷石黒など日本海側に大雪をもたらす「日本海岸式気候」もこの時代に生まれたことになる。
 さて、このような気候の変化は日本列島の植物相にも大きな影響を与えたことは言うまでもない。それまでの寒冷期の亜寒帯植物にかわって落葉広葉樹林が広がり、クリやクルミ、ドングリ、ブナなどの堅果植物、さらに、ヤマノイモ、ウド、ワラビ、ウバユリ、ゼンマイなどの食べられる野草に恵まれた。食料が豊富になれば自ずと人口も増えるのが自然の成り行きで、縄文中期もその例にもれず、縄文時代で最も人口が多かったという。データによれば縄文早期に2万人であった人口が増加を続け前期を経て中期には26万人まで増加した。しかし、その後反転し後期には16万人、晩期には7万6000人まで減少し、さらに弥生時代初期まで減少が続いたという。
 この減少の原因はどこにあったのであろうか。
 私は興味をもって近郷の市町村史やWEB上の資料で調べてみた。その結果、自然の生活資源に対して人口が増え過ぎたということが最大の原因という説が主流であった。さらに縄文中期を頂点に温暖化が次第に寒冷化に変動した気象の影響も大きかったという。
 まず、人口密度が当時の自然依存度からみて限界を越えたという説について考えて見たい。試みに本州の面積を26万等分してみると0.87平方キロメートルと意外に少ないことに驚く。その上、縄文人の住居が均一に広がっていたわけではないこと、山地が大部分を占める日本の地形を考慮すると確かに一人当たりの面積は少ないと思われる。
 また、この時代は定住化が進み、高柳周辺でも中心に広場をもった小規模な環状集落が存在していたのではないかと想われる。おそらく、集落の周りにはクリクルミなどの大木が茂り、林床には低木のツノハシバミミヤマガマズミの低木、また野草のフキウドなどが栽培されていたのではないだろうか。さらにその先にはコナラミズナラの林が広がり、谷の斜面にはヤマノイモゼンマイワラビが半ば栽培状態で自生していたのではないかと想像される。その他、低木では、アケビヤマブドウなど、更に野草では、ツルマメツルヤブアズキヤマノイモトコロホドイモカタクリクズヤマユリオオウバユリなどの管理栽培がなり進んでいたと想われる。縄文の人々の食料となった草木は他にも多くあったと思われる。ちなみに思いつくままに書き出してみたのが右の一覧表である。当時と現在では植生も異なり右の表の植物のすべてが自生していたとは思われないが相当数の植物は見られたのではなかろうか。(一覧表の植物の詳細は本サイト「石黒の動植物」からご覧ください)
 にもかかわらず後期、晩期、さらに弥生初期へと急激な人口減が生じた原因は、管理栽培による自然依存の生活のシステムに障害が発生したのではないかとも考えられる。とくに、数十軒から数百軒単位の集落が多くなった場合のメリットとデメリットは考察に値する。仮に伝染病の流行や害虫の大発生などの場合は、大きな集落の方のデメリットが大きい。当時の食料の中心的な存在であったクリなども、クスサンクリタマバチの大発生による大打撃を受ける年もあったに違いない。また、クリは秋の落葉が遅いために11月後半の早い時期に30cm以上の降雪があると葉が雪を留めてしまい主枝が折れてしまうことも多い。
 また、人口減にはその時代の気候変動が大きくかかわっていることは多くの識者が指摘しているところである。寒さばかりではなく大旱魃もクリやナラ、ブナなどの結実に深刻な影響を与える。筆者は祖母から石黒の城山の草木が春から夏にかけての旱魃のために枯れてしまい褐色の山に変わったという伝説を聞いたことがある。自分も1994年8月に、空梅雨に続く猛暑続きで石黒の山小屋の周りのブナの葉が褐色がかり未熟な果実をバラバラと音を立てて振るい落とす様を見たことがある。
 また、黒曜石やヒスイなどの遺物が各地で発見されており当時すでに、国内では交易が行なわれていたことから伝染病の蔓延なども考えられよう。
 いずれにせよ、縄文時代後半の人口減少をくい止めたのは晩期のころに、大陸からやって来て稲作を伝えた渡来人であった。かれらが伝えた稲作の普及により本格的な農業社会(村落)が生まれ人口も増加に転じたのである。
 自然、縄文人と渡来人の混血が進み、アイヌ人や沖縄人との混血も同時進行した。
 最近(2019年)遺伝子による研究調査によると、日本人(ヤマト人)が縄文人から受け継いだ遺伝子は10パーセントほどと推定できたという。それに比べ、アイヌ人は約60パーセント、沖縄人は約30パーセントという結果であった。
 したがって、上記の一覧の遺跡発掘の場所に縄文中期に住んでいたと思われる私たちの祖先の遺伝子が現代の我々の中に伝わっていることは確かなことであろう。
 長い氷河期が終わり温暖化が進み豊かな自然が出現した日本列島に1万年余の長い間、縄文人は自然の豊かな恵みに頼る生活を続けた。彼らはあらゆる自然や自然現象に精霊の存在を信じ、崇拝する文化を持っていたことを遺跡から知ることが出来るという。
 「万物に神が宿っている」という古来よりの日本人の宗教観は、縄文時代から我々の心の中で脈々と生き続けてきたのではなかろうか。

 ※先日(2021/4)テレビ放送で竹倉史人という方の縄文時代の土偶について新説の紹介があった。
 それは、縄文時代の土偶は女性や妊婦を模ったものではなく当時の主な食物であった木の実などをモチーフとしたものであるという説である。
 確かに、ハート形の土偶の顔はオニグルミの種子を2つに割った形に酷似している。シバグリそっくりの土偶の顔もある。また、サトイモ(縄文時代にすでに栽培され農耕儀礼に用いられた説あり)、またホドイモそっくりの腕や足も見られる。
 おそらく、縄文中期にはマメ類やヤマノイモなどの栽培やクリ、オニグルミなどの管理栽培は既に行われていたと想われる。
 いわば、縄文時代の土偶は主な食物であった植物の精霊を祭祀し収穫に感謝し、豊饒を祈るために作られたということであろう。新しい観点からの発想であり説得力をもった説であると思う。
 いずれにしても、我が故郷の集落では過疎化によって5軒(9人)になってしまったが村の祭礼は現在も(2021年)毎年、神主を招いて住民総勢で厳粛に行なわれている。
 思えば、それは縄文中期の土偶に見られる精霊崇拝や自然崇拝に根源をもった日本独自の文化であり、1万年余を経た現在も形骸化したとはいえ連綿と受け継がれているということが出来るのではなかろうか。
 

(文責 編集会 大橋寿一郎   
推敲中 )