足踏み脱穀機    
 
 石黒では「イネコキ機」と呼んだ。
 構造は上の写真のとおりであり、当時は大型の農機具の一つで重量は50s近くあったであろう。
 昔は、ハサから家に取り込んだ稲は家の中に積んでおいて、まとめて脱穀することが多かった。脱穀作業は、稲をこく者、脱穀した籾を集めトオシにかける者、稲こき機の脇の台に稲束を運び束を締め直す(機械に稲を引き抜かれないようにするため)者、後方に投げられたワラ束を8把一束にツナギで縛る者など一家総出の作業であった。
 脱穀作業は夜遅くまで続けられた。いつ終わるともなく続く、稲こき作業を「ウォーンウォーン、ザザーザザー」という音と共に70年たった今も、思いだすのは筆者ばかりではないであろう。夜なべの作業を終えて床にはいってもその音は耳鳴りのように続いたことを憶えている。
 また、当時は住宅の中の板張りのニワで作業をしたのでホコリが家中に飛散して居間の床が白くなるほどであった。

 足踏み脱穀機は大正時代に普及し、改良が加えられながら昭和20年代まで使用された。足踏み脱穀機は、1日に25〜30束(200〜240把)は脱穀できたものだという。
 足踏み脱穀機は、昔のセンバ(千歯)に比べれば画期的高能率の器具であった。だが、このセンバも明治初期まで使われたコキバシ〔2本の竹や木の片方をひもで結び、間に稲穂を入れて下方を握って引いて籾をしごきとる用具〕に比べれば数十倍の能率の器具であったであろう。
 二人踏みの回転筒の長い機種もあったといわれるが、石黒では見たことはなかった。ただ、筆者の家では他家から借りて2台の足踏み脱穀機で作業したことがあった。
 この足踏み脱穀機に代わり、作業用モーターの普及により動力脱穀機が使われ出したのは昭和30年頃であろう。
 昨日(2014.7.20)門出集落で調査を行った「古古路の会」の会長五十嵐さんに前記の二人踏み脱穀機について尋ねたところ、主に北海道で使われたものであるとの事であった。

補説→稲こきの移り変わり
資料→稲こきの思い出
資料→稲こきの手伝い