オンナショ(女衆)たちの正月

                       

 昭和20年代前半の頃、囲炉裏で火を焚き、作業場や牛馬舎が住居といっしょのためススやホコリがたまるので、秋始末や冬囲いをすっかり終えると、すす払いに始まる大掃除を家族全員で何日もかけて行い年末年始を迎えるのでした。

昭和20年代までの冬の雪道

 暮れから正月にかけては、オンナショ(女衆)にとっては大変気ぜわしい日々の連続となりました。特に正月の2日、3日は年始まわりで一家の主人が紋付姿で、お供え餅とお明かしを持って親類縁者家々を新年の挨拶にまわる習わしがあったので、この日の接待のための酒の肴を品数揃えておかなければなりませんでした。
 煮炊きのできるのは囲炉裏だけですから、ミンジョ(台所)と座敷の囲炉裏を一日中往復するだけでも大変な労力でした。当日は囲炉裏にドンゴロ(丸太)を燃やして家中を温め、座敷に丸いチャブ台(飯台)を出し、その上に手作りのゴッツォ(ご馳走)の数々を並べ、お酒の準備をして年始客を待ちました。
 「ここんしょぉ、えやったかい」と言いながら客はすでに座敷に上がり込んで来て座らずに「まぁ、明かしを一丁あげさしてもらって・・・」と言いながら自ら仏間へ直行し、持参の品を仏前に供えてカンカンと鐘をたたいてお参りをすると囲炉裏端に戻り、改めて正座して双方で新年の挨拶が交わされのでした。
 接待係りのオンナショは「さぁさ、まぁ、こっちへ来ていっぺぇ呑んでってくらさい(本家などのお客には「くんなさい」)・・・とお酒を注ぎながら世間話をしている内に次の来客が「えやったかぁい」と言いながら上がって来ます。すると先客は腰をあげ、「まぁま、おまえは(目上や役人などには「さん」がつく)よっくり、ごっつぉんなってってくらさい、おらへぇ、いっぺぇごっつぉんなったすけ」などと言いながら退席するのでした。
 こうして、あわただしく三が日が過ぎると、4キロ程も離れた遠方から血縁親族が、人一人通れるだけ雪の山坂道を徒歩で泊りがけで年始に来るのでした。この時は、1年ぶりの再会もあり、双方で待ちわびる気持も大きいものでした。
 そうこうしている内に15日の小正月がやってきて花木がどこの家にも飾られます。幾つになっても心に残る小正月の風物詩ですが、やっぱり、オンナショはご馳走作りに明け暮れの毎日で、少しも気の休まることのない日が続きました。
 ようやく、20日正月を迎える頃になると年始客も少なくなり、二十日正月をもって漸くにしてオンナショは、心身共に正月の気ぜわしさから解放されるのでした。 睦月(1月)という言葉のもとの意味は「親類知人が互いに往来して仲睦まじくする月」だそうですから、年始も良い慣習ではあったと思いますが、当時のオンナショにとっては大変忙しく難儀な月であったと思います。

 昭和30年代になると、生活改善運動がおこり、年始まわりや年始呼びはなくなり、代わりに村の集会所で合同年賀が行われるようになったことで、オンナショたちの正月の忙しさも大きく改善されたのでした。

大橋洋子(福島在住)