囲炉裏の思い出
                         
 昭和30年前までどこの家でも、囲炉裏がありました。囲炉裏のことを「地炉−じろ」と呼んでいました。囲炉裏にはボイ〔低木の焚き木〕やマキ〔ブナナラなどの大木を割った焚き木〕を焚いていました。 囲炉裏の中央に下がった自在鉤にはいつも鍋や茶釜が下がっていました。囲炉裏は煮炊きの場所であり一年中火が絶えませんでした。
 焚き木は、まだ残雪のある早春にハリキ〔春に焚き木を作る仕事〕をしてマキやボイを作り、夏には、刈り干し〔燃料にするための刈草主にハギなど〕作りをするのでした。
 囲炉裏の火は茅葺きの屋根材のカヤを湿気から守り、屋根材を固定するために使われた縄を守りました。
 また、囲炉裏の周りにはサツマイモやサトイモなどを格納する大きな穴があり11月初めには芋とモミガラを交互に並べて入れ寒さから守のでした。
 また、囲炉裏には、横座、客座、棚もと、下座〔しもざ〕の区別があり、横座には家長、客座には客が居ないときには子ども達が坐り、棚もとには母親、下座には祖母と決まっていました。
 ですが、役人や駐在、学校の先生などが来ますと横座に座らせました。すると順序が下座の方に移動して祖母はコタツに移動することになります。棚もとの母親はお客の接待で座を立ってお茶をだし、茶請けに漬け物、梅干しに砂糖をかけたものなどをだしました。
 その頃の役人や駐在は黙っていても自ら横座に座り、酒を飲んだものでした。特に巡査はサーベルという長いピカピカ光る刀を腰にぶら下げて長靴を履いてくるので子どもの頃はびくびくしていました。巡査は酒を飲むと赤い顔になって、「野郎ども、先生のいうことを聞いているか、父っつあんやおっ母のいうことを聞いているか」などと私たち子どもに向かって言うのでした。私たちは巡査や役人がくると冬はコタツに逃げますが、夏などはすぐに屋外に遊びにでたものでした。
 外で遊んでいると吸い物のいい香りが家の中からしてきました。「早く帰ればいいのになあ」と弟や妹と話したものでした。ようやく巡査や役人が帰るとすぐに家にはいるのでした。吸い物といっても肉が入っているわけではなく缶詰の魚を入れた吸い物でした。
 祖父はよく「あの若僧どもが来ると酒をのんで長っ尻で参るなあ」などとよくぼやいていたものでした。祖父は役場に勤めて収入役を何年もしていましたので、その辺の実情はよく分かってはいたのだろうと今にして思います。
 また、囲炉裏は幼児が転び込まないように金属製の丈夫な枠をしておくこともありました。役人や巡査などはその枠をいかにも邪魔そうに振る舞うのを見て子供心に腹立たしく感じたものです。
 昭和40年代になるとプロパンガスが炊事の燃料として使われ出すと、囲炉裏はその役目を終えてだんだん姿を消していきました。囲炉裏も練炭を熱源にした掘りごたつに変化する家も多くなりました。
 また、それまで使っていたユタンポや懐炉の代わり豆炭アンカが普及しました。
豆炭アンカ

 しかし、私もその一人でしたが、どうしても囲炉裏の心地良さが忘れられず板張りのニワに囲炉裏を作ってしばらくはマキを燃している家もありました。


 文・田辺雄司 (石黒在住)