春節句の頃の思い出
                           田辺雄司
 3月になると、石黒の長い冬も峠を越えてようやく日も長くなり村の人々の声もにぎやかに聞こえるようになります。と言っても、3月は雪国では名ばかりの春で吹雪きの日もあり、ようやく取り外した2、3枚の窓の落とし板を再び取り付けることもありました。年によっては3、4尺〔1〜1.2m〕の降雪もあり3月になって屋根の雪下ろしをすることも珍しいことではありませんでした。
 しかし、3月も下旬になりますと雪が降っても間もなくおさまり春の陽光が一日ほどで降った雪を解かしてしまうのでした。
 町では3月3日が桃の節句まつりでしたが、石黒では1ヶ月遅れの4月3、4日でした。その頃になりますと出稼ぎに行った村人も帰ってきて村は急ににぎやかになります。
 出稼ぎから戻ってきた人達は「やっぱし、家が一番いいのう」などと言いながら土産を持って訪ねてくれる人もいました。土産はたいてい、ザラメ砂糖を紙に包んだものや双六や江戸紙と呼ぶ東京の様子が新聞紙大の紙に色刷りされた物でした。そこには東京の色々な場所が描かれていました。
 それを見て子どもの頃は、東京という所はすごいところだなぁ、はやく大人になって東京に行ってみたいと思ったものでした。その江戸紙を学校に持って行きますと先生がそこに書かれた場所について詳しく話してくださいました。
 春の節句にはどこの家でもモチをつきご馳走をつくり3、4日の2日間をゆっくり過ごしました。その頃になりますと、家の周りの雪も少なくなり窓の落とし板もすっかりはずすので家の中も急に明るくなりました。
 そして、この節句が終わると苗代の雪消しなどの春先の農作業が始まりました。真っ先にする春仕事は囲炉裏でたくボイ〔芝木〕切りと苗代の雪消しでした。やぶ〔雪原〕が凍みた朝は早くからハコモッコを背負って苗代に行き近くの土手の土をハコモッコに入れて運んで撒くのでした。土を撒いたところの雪消えは一週間ほど差がでました。また、新土を田にいれることはイネの生育にも良く米の収穫も上がると言われていました。
 私たち子どもは、自分たちで手製の木ゾリワラゾリ、山竹を使ってつくったスケートなどで遊びました。
 5月にも町では端午の節句がありましたが、この日も1ヶ月遅れで行われました。菖蒲湯をたてて入るのでした。
 また8日はお釈迦様の日でしたが、この日は午前にどこの家でも畳やゴザ、ムシロなどを外に干してその日から座敷は板の間にするのが慣例でした。午後からはゆっくりと休み、翌日からは田打ちなどの田仕事に取りかかるのでした。腰にズンギリ、頭にはネジリハチマキで働く大人たちの姿が今でも目に浮かびます。