コ イ(鯉) | |
暮らしとの関わり 子ども時代(1945年頃)から、もっとも暮らしとの関わりが密であった魚はコイであろう。どこの家にも家の脇にタネと呼ばれる小さな池があり、そこにコイが飼われていた。座敷の裏口は、そのタネに面していて食事の余り物など投げ与えると競って寄ってきて食べた。まさに何でも食べるといってよいほど貪欲な食性を持っていた。 また、水田に放し飼いをすることも行われた。筆者の家でも自分が中学生のころに500mほど離れた10a近い当時としては広い水田に農協が斡旋した稚魚200匹を毎年放した。筆者が中学2年生の年は稚魚200匹放した筈であったが、秋の稲刈り時に収穫した数は210匹であった。今日のようにサギやイタチなどの外敵が少なかったことがわかる。 捕まえたコイは、家の台所に面した生け簀に入れて冬季間に食べた。調理法としては味噌仕立の鯉こく料理だったと記憶する。生け簀に入れておいたコイは泥臭さがなく美味しかった。殺して胆嚢を取り出す所まで筆者の役目であったが、餌を食べない冬期の胆嚢は大きく見つけ易すく失敗した記憶は1度しかない。 また、石黒では胆嚢を「ヨ」と呼び胃の薬と言われていたので生のまま飲み込んだ。ウェキペデアによればコイの胆嚢には毒性物質が含まれ下痢、嘔吐時には腎不全、意識不明、稀には死亡することもある記されている。通算百単位の数の胆嚢を丸呑みした自分が無事であったことは幸いであった。 また子どもの頃は、石黒川にはコイも生息していて釣りに熱中したが釜淵の少し下流の淵で60p余の大物を釣りあげたことがあった。糸が切れることを警戒してゆっくりと上流の浅瀬に移動させて引き上げたことを憶えている。 この淵ではよく釣りをしたが、自分が釣り糸を垂れている水面にカワセミが木の枝からダイビングすることも普通のことであった。 当時も鳥獣による食害はあったが現在に比べて、人間との共生のバランスのとれた自然であったと思う。 参考資料 コイの産卵 ビデオ資料 コイの産卵 上写真 2019.5.4 市内 長谷川和正 右上写真・上-2005.9.26 石黒川 ・下 1965.10.6 栃尾市田代 撮影−大橋寿一郎 産卵時の様子-1 写真 2019.5.4 市内 |
解 説 コイ科 外見はフナに似るが口元に2対のひげがある(下写真)。流れが緩やかな河川や池、沼、湖、用水路に生息する淡水魚。 体長は60p程度だが時には1mを越えるものもある。雄の方が頭部が大きい。 食性は雑食で水草、ミミズ、昆虫類、小魚、人間の食べ物の残りなど大抵は食べる。 産卵期は春から初夏。この期になると成長したコイが浅瀬に集まりパシャパシャと音を立てて雌が水草に産卵し、雄が放精する。 1回の産卵数は50〜60万個程と言われる。水草についた卵は数日のうちに付加する。壽命は平均で20年以上で希に70年を越える個体もある。また、田の魚類に比べ適応能力が高い。(子どもの頃に、コイは水から上げた状態でも1里の道を歩いて運べる)と聞いたことがある。 海水魚がどこでも手に入る時代となり、現代では食用としてのコイは存在感が薄れてきている。一方錦鯉は国際的な人気を高めている。錦鯉の発祥の地は新潟県小千谷市と旧山古志村である。 フナと区別点→ヒゲがあること 2019.5.22 編集会 産卵時の様子-2 写真 2019.5.4 市内 |