稲刈り休みの思い出
                           田辺雄司
 9月の末頃になると学校の稲刈り休みが始まった。休みになると朝から夕方まで山へ行って手伝いをしなければならない。小さい弟妹達もおもしろ半分に稲背負いをするのだった。弟妹たちは、しばらくは滑ったり転んだりとおもしろがって運ぶのだが、そのうちに稲穂で頸のあたりがチクチクと痛くなると泣き出す始末で稲の上で休んで柿やゆでたサツマイモを食べているのだった。
 しかし、4年生の自分はミノ代わりに袖無しを着て1束半〔12把〕ずつを背負って馬の通る所まで、畔の稲がなくなるまで運ぶのだった。
 朝は露があるので背負うときに地面に腰を下ろすので尻が汚れて冷たかったが兄と2人で我慢して運んだものだ。
ク リ

 田の畔の稲運びが終わると柿やサツマイモを食べながら一休みしてから、今度はハサ場ヘ行って稲さんだし〔稲渡し〕をした。
 しかし、12段もある高いハサなので4、5段の所までは自分たちで投げ渡してかけた。高いところは後で大人達がやるのだった。
 こうして手伝いをしている時に友だちが自分の林に栗拾いに来ると気が気でなかった。見つけると「おーい、そのはオラ栗だぞぉ」、「アケビも採るな」などとと怒鳴っていると、父が「ネラも、行って栗をもいで来い」と言ってくれるのが何より嬉しかった。袋をもって大急ぎで弟妹も連れて、栗の木の下にあらかじめ置いておく長い竹の棒の先のカギを栗の枝に引っかけて揺さぶると、ボトボト、バタバタと栗や栗のイガが落ちるのだった。
 弟妹は「あったあった ここにもあった」などと言いながら夢中で拾うのだった。ついでに、美しい薄紫色のアケビの実もとって、ハサ場でミノの上に広げて「いっぺぇ、あったのう」と喜びながら食べたものだった。いつまでも、みんながアケビや生の栗の皮を歯でむいて渋を爪でとってガリガリと美味しそうに食べていると父に「あんまり食べると腹が痛くなるぞ」と言われてようやく食べるのをやめて稲渡しを始めるのだった。
 こうして1日働いて家に帰ると、祖父に「野郎、今日はおれがランプのホヤを磨いておいたぞ」と言って貰い、ほっとしてそのままごろ寝して夕飯に起こされるまでは板の間に寝てしまうのだった。そんな日が続くと『たまには雨が降らないかなぁ』と心の中で思うこともあった。
 こうして天気が続くといよいよ稲あげの仕事が始まった。稲上げは午後から始めて夕方暗くなる頃までやった。乾いた稲は特にチクチクとして嫌な仕事だった。その上、稲あげをした夜は決まって稲こきをする。私が小さい頃は千歯でビリビリとこくのだったが、そのうち足踏み脱穀機になった。この機械は千歯とは比べものにならないほど仕事がはかどったがそれだけに忙しい。ガォーガォー、ザザザーという音を立てて脱穀をするのだが、昼間、一所懸命に仕事をしたのに夜は夜で10時、11時まで働くので親はどうして疲れないのか不思議に思うことさえあった。
 やがて、長かった稲刈り休みも終わり学校へ行くことになりほっとしたものだが、まだ何人かの生徒は1日休んだり、午後から早引きしたりした。
 学校が始まると綴り方に稲刈り休みのことを書かせられたものだった。私は綴り方は好きだったので休み中に手伝いをしたことを3枚に書いたが、綴り方の不得手の友だちもいて書く内容のヒントを与えてやったこともあった。
 70年も前のこと、今、こうして振り返ってみると、その頃は家庭学習などはすることはなく、手伝いばかりだったが、その手伝いを通して学んだことや身に付けたことが、生きていく上で役立っていることを痛感するこの頃だ。