太平洋戦争開戦のラジオ放送の私の記憶

 一体何才頃から人間の記憶は残るものであろうか。私は昭和13年4月生まれであるが、太平洋戦争開戦のラジオ放送が記憶の底にあると思い続けてきた。太平洋戦争開戦は昭和16年12月8日であるからその時、私は未だ3歳4か月であった。
「思い続けてきた」というのは、この年齢の幼児の経験が果たして記憶として残るものかどうかが疑問であったからである。
 そこで、ちょうど1921年の開戦の日から79年目の今日(2020.12.8)、文章にまとめながら少し詳しく考えて見たいと思い立った。
 まず、記憶に残る映像といえばラジオの前に立った父と叔父の姿である。当時、石黒ではラジオの普及が始まったばかりの頃で各集落に3~4台ほどしかなかった。私の家のラジオは囲炉裏のある「座敷」と呼ばれる部屋の窓際1.5m程の高さの棚の上に置かれていた。その場所は天窓の近くで、座敷の中で一番明るい場所であった。真冬でもその天窓の外の雪は常に除雪をして、明りとり用の窓がふさがらないように努めていた。
 その時の私の記憶にある光景は、ラジオに向かって立つ父と叔父、それも二人ともラジオの近くに寄って聞き耳を立てるような様子である。放送中に二人は「いよいよこの時が来たか!」というような言葉を交わしていた。その二人の後ろ姿に何か大事件が起きた気配を子ども心に感じ取ったのであろうか。その場面がひときわ鮮明な記憶として残っている。アナウンサーの「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」というやや興奮気味の甲高い声もその場の異常な雰囲気を幼児の心に感じ取らせたものかもしれない。あるいはまた、私を抱いていた祖母(祖母が主に私の面倒をみていた)の心の動揺が体を通して幼い私にも伝わったものかもしれない。
(この祖母は後年、「わたしは三代の戦争、日清、日露、太平洋戦争によって被害を受けた。戦争はほんとうにこりごりだ」と事あるごとに言っていた。日清戦争と日露戦争では夫が出征し、太平洋戦争では三男が命こそとりとめたものの重傷を負っている)。
 もう少し当時の記憶をたどってみたい。祖父が亡くなったのは昭和17年11月3日で私が4才7
月の時である。1年ほどは床に伏していた。その頃の祖父についての記憶には鮮明なものがいくつかある。亡くなる前のころはよく私を寝所に大声で呼んだ。私が枕もとに走って行くといつも「起してくれや」と手を差し出した。起してやる(?)と「ようした、ようした」とほめてくれしばらく引き止められて言葉を交わしたように思うが記憶にはない。
 昔の寝室は小さな窓が一つあるばかりで昼間も薄暗かった。とくに冬季は窓が雪でふさがるため今から想えば暗闇に近い状態であった。

 
 夜   着

そこで一日中寝ているのは退屈で淋しいものであったに違いない。その上、昔の夜着は病人には重すぎ、祖父は亡くなる直前のころには天井張りから麻ヒモで夜着を吊るしてもらっていたことを憶えている。
 やはりその頃の事でもう一つはっきりと憶えていることがある。それは5月の初め頃と思うが祖母に連れられて村内の親類を訪ねたのち帰宅すると、祖父が玄関まで這うようにして出たのであろう。途中で転んだのか向う脛から血を出して雪だなの下にノメシミノを敷いて両ひざを抱くようにして座っていた。それを見た祖母は驚き大層の剣幕で諫めたことをよく覚えている。「あれほど、部屋で寝て居なさいと言っておいたのにどうしてこんげなところまで出てきゃったのだね」という意味の祖母の言葉も記憶しているのでこの頃の記憶力はかなり確かなものであったと思う。
 これは昭和17年の5月初め頃の事であり私が3才9
月の時の記憶ということになる。このことを元に考えると私の3才4月の「太平洋戦争開戦放送の記憶」も特に希なるものではないといえるであろう。
 試しにWEB上で調べると、幼少期の記憶で最も古いものは男性の平均は4.0歳、女性は3.4歳の記憶というデータを得ることが出来た。このデータに基づいて考えても私の「太平洋戦争開戦のラジオ放送の記憶」は少しも疑わしいことではないという自信を得ることができた。
 
 ちなみに、この開戦から3年余のちの昭和20年8月15日に天皇から発せられた「太平洋戦争終戦の詔」により私たちは日本の敗戦を知らされたのであった。この時の記憶については私が小学1年生(国民学校)の時のことであり、本サイト「子どもの暮らし」に掲載しているとおりである。

〇追記
 80才を過ぎたこの頃は、老化による物忘れが多くなったように思われてならないが、子どもの頃の事は不思議なくらい今も鮮明に憶えている。のみならず歳と共に故郷の山河とそこでの子どもの頃の暮らしの記憶は心の奥で一層に光芒を放ってくるように思われる。

          2020.12.8   編集会 大橋寿一郎