母のこと
                          柳 橋  孝
 私の大切なものの1つに、古ぼけた何の変哲もない文箱がある。その中には14才で上京してから、文通を重ねてきた忘れられない人たちの手紙がぎっしりと入っている。
 50年以上も経つ戦時中のものは、色褪せ、さわるとボロボロで、ちぎれそうになるので、めったに読むことはなく、押し入れに蔵ってある。
 その文箱を久しぶりに取り出して、南側の窓辺で、新聞紙を敷き陰干しにした。
 秋の日はつるべ落としというが、窓の外は5時前なのに夕闇の訪れをつげている。そのとき閉め忘れた窓の隙間から、なつかしい香りが流れ込んできた。隣の庭に植えられている木犀の香りであることに気づく。亡き母が好きだったかおりである。
 私は誘われるように母からの手紙を取り出していた。母の実家の敷地の一角に、秋になると咲く木犀の古木があり、祖父がその下に筵を敷いて遊ばせてくれた、遠い思い出が頭をよぎる。
 明治33年生まれの母は、村の小学校の、第4回の卒業で、同級生は男4人、女3人しかいなかった。姪を背負っての通学も許された時代で、母からよく、
「それでも学校に行けただけでも幸せだったんだよ」と、きかされていた。
 母の手紙の束から、一番古い方を開いた。35歳くらいのときのものであろうか。ひらがなが多いが、こうして今、読み返してみると味わいがある。
 あの頃の世相がつたない文章の中によく描写されていてなつかしい。
 一歩も村を出たことのない母が、知人を頼ることを嫌い単身上京した気の強い一人娘に寄せる心情が、るると綴られている。
 私が泣きながら読んだのだろうか、それとも母のものか、落とした涙のあとがしみになって便箋に残っている。
 おしゃれな母はかもじを入れてハイカラに結い、顔にはウテナクリームを塗っていた。
「うちのあねさはへんなしこき(お洒落)で、山へ行くにもクリームの匂いをさせている」と、なじっていた祖母。それに下部屋(若夫婦の部屋)には鏡台やラジオがあり、それも祖母の気にくわないことの1つだが、嫁が持参したもので文句のいいようがなかった。60軒ある村は、ほとんど縁つづきなのに、やはり嫁にはきびしい祖母だったらしい。
 裁縫を何年も習った母は、どんなものでも縫えた。農作業が終わると「洗濯泊まり」といって嫁は実家に帰り、自分や子どもの正月着をつくるのが恒例だったが、母にとっては安息日だったのだろう。9月は虫干しの時期で、家中に張りめぐらせた麻縄で、持参した着物を2日間もやるほど衣装もちだった。その幾枚かを5人の弟たちに縫い直して着せたらしい。
 私が配給の魚を送った礼を書いているが、あの頃の魚は何だったのか、思い出せない。乏しい中から親に贈った当時の私もまた懐かしかった。


         母の手紙 (カッコ内の文字は私)
孝子様 ながらくごむさたいたしましてすみません 私どもはみな たっしゃで 年とり(越年)をしました 孝もたっしゃで はたらいているとのこと よろこびました 1月12日だしのこにもつを31日にうけとりました
ほんとうになみだこぼして 孝のはいきょ(配給)のさかなや いろいろのものに ありがたく いただきました
母も孝のこと前日(毎日)しんぱいしています どうして しっこし(引越)したのですか しらせてください 孝がりっぱな人になって くれればよいがと おもっています ずぶん(自分)
のみをひきしめてべんきょうしなさい ことしは雪がたくさんふりあさのみちつけや雪ほりでなんぎをしています
いまは なにもかわれないのに 子どもはなにもわからない きものはきらす いとはなしで かわれないのでこまります
みんな母のきものをこわしてきせています こんなことが5、6年もつづけば 母はまるはだかになるだろとおもっています お父さんから孝は がっこうをそつぎょうしたら なんよう(南洋)のほうにゆくと てがみにかいてよこしたいわれました 母はほんとうに ちからがおちました 東京に いれば 東京けんぶつにいかれるやらとおもっているのにね
どこへいっても としとつてなかないようにしなさい わかいときずぶんのきままにすると なく(泣く)ようなことになるから よくかんがえてしなさい このあいだおくったものはいいもち(母の実家)のうちで こしらいておくりました 1月1日からきょくからおくれないそうです
ほそいきゅうきんで くがくするのは ほねがおれるだろうとおもいます
からだにきをつけて けがしないよう
なつやすみには、よっくりきなさい まだかきたいことは やまやまあるけれど いそがしくてかかれません ひまをみつけて また たよりします

  昭和15年2月5日) 
         柳橋孝著「あとには虫の声しげく」から抜粋
     
〔著者 柳橋孝 旧姓田辺 上石黒出身 川崎市在住〕