牛馬の飼料−豆かす・豆板についての思い出
                          田辺雄司
 昭和10〜15年頃のことと思います。当時は、国策で満州への移民を推進した時代で、学校でも先生が狭い日本から広大な満州に移民することを口癖のように勧めるのでした。
 私の母の実家のある中後集落でも、親戚の家が満州に移民することになり、母がお別れにと3晩も泊まって来たことを覚えています。遠い遠い満州へ行くことは、一生の別れだとさんざん泣いて来たと言っていました。その後、中後では3家族が移民したとのことでした。
 母の実家の親類では、その後、奉天に到着したとの葉書が来ただけで連絡もないまま支那事変が起こり日中戦争となり、さらに太平洋戦争に突入しました。
 国内では初戦での日本軍勝利に沸き提灯行列が各地で行われましたが、母は移民した兄弟や親類のことがとても心配のようでした。
 当時の新聞には広大な畑に大豆やソバが栽培されている写真が掲載されていましたが、母はそんな写真を見るたびに移民した親類の人たちのことを思い、「どうしておられるだろうかねぇ」と心配していました。
 その頃に、日本からの開拓団の人たちが栽培した大豆から油を絞った後のカスが「豆かす」とか「豆板」などと呼ばれ村役場を通して牛馬の餌として配給になったのでした。
 それは直径1mほど厚さ15pくらいで真ん中に丸い直径10pほどの穴が開いていました。
 父はほとんど毎日、その豆板を槌(つち)で叩いて細かく砕き、シッチョウナベに入れて囲炉裏で煮て馬に食べさせるのでした。春に田かきなどで馬が難儀をする時には、それにシイナモミ(不稔籾)などを混ぜて煮たものを作場(田)にもっていき、休憩のときにも馬に食べさせいてました。
 私も子どもの頃、父に言いつけられて豆板を槌で叩いて砕いてみましたが堅いのに驚きました。子どもの力では端から少しずつ砕いていくよりほかありませんでした。
 また、一度、口に入れて噛んでみましたが少し甘く、カビ臭いような気がしたことを憶えています。
 母は相変わらず、満州へ移民した兄弟や親類のことを心配し、豆板を見ると、あの人たちが作った豆だろうかなどと涙ぐんでいたものでした。
 今にして思えばその時の母の心配は、その数年後に日本の敗戦によって、言語を絶するような満州引き揚げの悲劇となったのでした。
                         (居谷在住)