戸塚海軍病院看護術練習生時代のこと
                           矢沢富彦
 私は、昭和18年の11月に海軍を志願した。
 当時、日本はミッドウェー海戦大敗を機にギューギニア、ガダルカナル島撤退と敗色が濃くなっていた。こうした情勢の中、前線での死傷者が増大し、衛生兵の大量増員が必要になった。そこで政府は昭和17年に戸塚海軍病院に併設する練習部を大幅に増強し、高等科・普通科・特修科などを設置し志願兵を募ったのであった。
 試験は柏崎市であったのでの、受験前日、朝早く出発して釜坂峠を越えて岡野町を経て夕方にようやく柏崎に着いた。
 翌日の試験は国語、数学、一般常識などの他に体格検査も行われれた。
 数ヶ月後に合格通知が届き、召集令は翌年の5月に届いた。召集地は京都府舞鶴海兵団51分隊とのことで、まず新潟市に集結し出発することになっていた。
 出征当日は、村の神社で壮行会をしていただき村はずれまで村人たちに送られて若葉香る故郷を後にした。
 新潟市の集結地に到着しすると召集された人数は総勢30人ほどで、特に、十日町や小千谷方面の人たちが多かった。
 そして、新潟駅で召集された他の人たちと合流し、富山駅で臨時特別列車に乗り換えた。そして、ようやく舞鶴に到着したのは翌日の夕方であった。
 舞鶴海兵団兵舎に到着した我々は、簡単な身体検査のあと、入団式に臨み兵籍番号を言い渡され軍隊手帳を与えられた。私は51分隊5教班に配属された。
 こうして、入団後、班編制が行われ、教官班長の指揮の下に訓練が行われることになった。海軍は陸軍に比べて自由の気風があったと言われたが入隊後、次第に軍律の厳しさを思い知らされる苦しい訓練の日々であった。
 練兵場での主な新兵訓練は、海軍体操、手旗信号、カッター(訓練用手こぎボート)、水泳などであった。その他、棒倒しや騎馬戦なども行われた。また、舞鶴から30qほど離れた福地山方面の蒲生という土地で実弾を使っての陸戦訓練が行われたこともあった。
 軍隊訓練は勝敗、つまり競争を原理とした訓練であり、毎日が競争の連続であった。そして、負けた者のみならず総員制裁を課せられることもしばしばあった。
 このような3ヶ月の訓練を終えた後、私は上等兵に昇格して普通訓練生として神奈川県の大船の戸塚に創設されたばかりの戸塚衛生学校に異動させられた。
 ここには、戸塚の他に賀茂衛生学校があり、看護科の下士卒の医務教育と薬剤教育を分担して行っていた。
 戸塚校では、衛生兵になるための基本学科の学習が主であり専門分野であるため難しく、次々に行われる試験にそなえて気の抜けない毎日が続いた。。
 私は、ここで6ヶ月の教育を受けて兵長に昇格して自主隊として舞鶴海軍病院に1ヶ月、さらに、42魚雷調整班として園崎航空隊に2ヶ月、豊橋航空隊に3ヶ月勤務した。
 その後 現在の愛知県豊橋市杉山町役場の管轄下で、山をくり抜いて造ったトンネル状の野戦病院で2ヶ月勤務し、2等下士官に昇格し終戦を迎えた。
 「撃ちてしやまん」の決戦標語の下、本土決戦となることを覚悟していた我々には、終戦は国破れた悔しさと自らの命を落とさずにすんだ喜びの入り交じった言うにいわれぬ気持ちであった。
 とくに、終戦により日本国民の価値観が大きく転換したことは、多感な青年時代の私たちには、あまりにも大きな衝撃であった。
 私は、その時の気持ちを、平成10年に出版された「戸塚海軍病院第3期普通科看護術練習生− 思い出集」に「一言」と題して次のような短い言葉を寄稿した。

「愛国」という言葉にだまされて志願する
志願して殺された友を想えば国恨む
学舎で生死を共に六ヶ月
神経痛は戸塚の土産、大切に。
                        (下石黒在住)