旅 立 ち
                       柳 橋  孝
 母に着替えをつめた柳行李を背負ってもらい、ふるさとを後にしたのは昭和13年。私が15歳の春だった。
 母は縞柄のモンペ姿。私は仕立て下ろしのお召しの袷を尻はしょいにし、真新しい巾着袋の中に、家族や親類からもらった餞別の品々をおさめ、隣村(鵜川村)にある乗り合いバスの待合所まで、2里の道を歩くのだ。やっと標高500mの小岩峠を登り切った。
山頂付近からの眺め

 この峠の頂上は、石黒川の村境で、右に黒姫山、左の尾根つづきにに蛇岩があり、その先に富士山の形に似た鷹巣山がある。むかし黒姫の女神が大蛇にのつてここまできたとき、麦の穂先で目をつかれたとか。以来この村では麦を作らないという伝説がある。
 見晴らしのいい峠の上で、休む場所を探し母の箕を敷いて、中飯を食べることにした。
 「奉公になんか出なくてもいいのに。なんで苦労しにいくがんだ」
母は涙をためた眼を向け、私の身体を揺すった。ひとり娘を出すことを母は最後まで反対したが、父だけは、
「お前の取るお金は、家では当てにしないから、自分のやりたい道を探せ」
と励まし、快く送り出してくれたので、今日の旅立ちになったのだ。
 私はすねるように
「だって、勉強したいだもん」
 と、口をとがらせ、小さな声で言い訳をしたものの、顔が上げられずに目を足もとに落としたら、かわいいスミレの花が咲いていた。
 前方の山の頂きには、まばらに雪が残り、山桜や、灌木の若葉が目に入った。この景色は美しい。私はこの秘境や家族と別れ、ふるさとを離れる切なさが胸に迫り、涙があふれ出した
「さあ、いこうか」
 母は立ち上がり、支度を始めた。これからは峠をくだるので楽になる。
 遠くに見える三国山脈の、その遙か向こうの町まで行く娘と、一歩も村から出たことのない母と、交わす言葉がみつからず、それぞれの思いを胸に黙々と歩いた。 
 人っ子ひとり通らないこの道を下り切ったところに、昔、自来也が住んでいたという伝説の残る灰庭の岩窟がある。岩窟の高さは2間(約4m)ぐらいあり、幅は7間(約14m)以上で、奥行きが3間(約5m)ぐらい、その中央に石の祠や、石像がおさまり、目をむいた赤い石仏が怖い形相をしている。この周囲に谷川が流れ、祖母が
「この淵は底なしだからたすからないから気いつけれ」
 と教えられながら通った記憶がよみがえる。
「おっかさ。あこ(あそこ)はやだねぇ」
「うん。何度、通っても気味がわるいどこだ」
 母は眉をひそめ、心細そうだ。独りで帰る母が足を踏み外し沈んだらどうしようなどと、歩きながら今度は母のことが心配になった。
 町の生活に憧れもあり、そこに行けば念願の夜学があるだろうと、世間知らずの小娘が安易に考え、募集員の言葉に乗ったのだ。
 これから行く勤め場所は、桐生のミシン刺繍屋さんで、一年間の見習いが済めば、技術者だから給料もいいし、「話し合いでは学校に行けると思う。俺の従兄弟だから口添えしてやる」と、熱心にすすめてくれた佐藤さん。
 この人は祖母の妹の嫁ぎ先の集落に住んでいて、鎮守様の祭礼のとき、奉納される「太夫舞」の、舞いかたとして村に来る。信用の出来る仲介者だった。
 やがて2里(8q)の道程も終わり、バスの通っている街道まで出た。この女谷村の待合所には、私といっしょに行く娘2人と佐藤さん、見送りの親たちが待っていてくれた。母はその人たちに丁寧に頭を下げ、娘のことを頼んでいる。
 乗り合いバスが来て、母との別れがやってきた。初めて他人の中に入る気の強い娘を見送る母は握りしめていた手拭いを何回も目に当てている。
 「達者でなあ!」
 という言葉だけで、後の声は聞き取れなかった。昔風のハイカラな髪がよく似合う母は、そのとき34歳であった。

柳橋孝著「あとには虫の声しげく」から抜粋
〔著者 柳橋孝 旧姓田辺 上石黒出身 川崎市在住〕