小岩峠

 大字折居から石黒村へ通じる小岩峠は、標高500mほどです。一般には岩屋の峠と呼ばれています。
 拝庭から岩屋までは峰道ですが、岩屋から奥は谷あいに入り、谷のきわまる辺りから頂上近くまで耕地がありましたので、この道は農道でした。耕作者は主として拝庭の人達でした。
 この峠道も他の峠と同様、利用者は、ほとんどなく峠の頂上を境にして両村の地元の人たちにより、ようやく道の維持・管理が行われていました。
 峠の途中には、拝庭の岩屋と称される大きな岩窟があります。その周囲は、地元の人々の神の祀り場になり、自然の岩石や石の祠や石像があります。そして、伝説には自来也〔じらいや〕が住んでいたとも伝えられています。また越後地震として記録に残る文政の大地震で崩れ落ちたいわれる大きな岩石の塊が落ちたままになって岩屋の前方にあります。
 峠の頂上近くには屋敷平、頂上に続く峰には大平等の標高500m前後の台地があり、かつて人が住んでいたと伝えられます。しかし、峠にまつわる伝承は聞きませんでした。
 この峠が将来、主要な道路の位置にあるというので政治的に取り上げられて有名になったのは昭和2、30年頃のことです。
道路開設の第一段階は、まず地元の林道として拝庭を基点として工事を始めました。そして第二段階は、石黒村に接続するために県道に昇格する運動に入りました。県知事をはじめ地元の県会議員、市会議員などの現地視察がありました。
 その後、県道に編入されて工事が続けられ、幾年か経てようやく岩屋の上まで進みました。この段階で一応工事は終わりました。これから奥の石黒へ通じるには、トンネル工事になります。私の在村当時の工事はこの地点まででした。
その後地元の新聞等によりますと、運動は続けられ、最後の第三段階は国道への昇格運動となりました。
 この運動の様子、地元の新聞等で知りましたが、10年も前のことですから定かな記憶もありません。国道への昇格運動の最後は、田中内閣当時であり、総理大臣自らの視察でした。地下足袋を履いた総理大臣は、鵜川側の拝庭から登り、峠を越えて石黒側へ降り、現地視察を終えられました。途中で同行の人が蝮を数匹捕まえたと報じられていた記憶があります。〔略〕

              高橋儀宗著 鵜川の話 〔昭和61年刊〕