物々交換の思い出

                        大橋洋子

 石黒にバスが通るようになると(昭和26年6月)柏崎の荒浜方面から行商人が村々へ来るようになりました。たまにバスに乗り合わせると2,3人の女の人が自分の頭より高く積み上げた荷物を背負ってバスに乗り込んで来ました。お陰で魚の干物や、一夜干、海草類なども口に入るようになりました。

ブリキの米タンク

 この頃は、勿論お金でも買えたのでしょうが、記憶にあるのは米との物々交換でした。ブリキの米タンクの排出口に「ミ」を当てて米を出し、一升マスで計って行商人が広げる米袋に入れるのでした。行商人の背荷物は軽くはならず、帰りはお米を背負って重いだろうなぁと思ったものです。
 また、
昭和30年代には、毎年長野県から車で音楽を鳴らしながらリンゴ売りがやって来ました。音楽が聞こえると村人はぞろぞろと米袋をぶら下げて車の周りに集まりました。「2升」とか「3升」と言うと量に見合う分のリンゴを計って渡してくれました。主に国光でしたが青リンゴに始まり、年々ゴールデンやインドりんごなども選べるようになりました。宿に何日か滞在しながら村々を巡回していたようでした。越冬用は別に各家々が箱でまとめ買いをして籾殻の中で保存して春先まで食べました。リンゴも金品両方で精算出来ましたが、ほとんどの家がお米と物々交換でした。昭和40年代になると門出の方から移動販売車が賑やかな音楽を鳴らしながらやって来るようになると、これを機に村の食生活は徐々に都会並みになり、生魚も容易に食べられるようになりました。
 ムツ(ギンタラ)など丸ごと一匹を輪切りにして煮ても焼いても味噌に漬けても美味しかったものです。忘れるに忘れられないのはこの時、生まれて始めて「バナナ」という物を見たり食べたりしたことです、あの時の珍しさと味は時を経た今も忘れられません。この頃になると、サイフを持つ人、米袋を持つ人色々でしたが若干物々交換の方が多かったように思います。物々交換は昭和45年頃までは間違いなく続いておりましたがこの年代を境に石黒も味噌の果てまで自家製から買い味噌へと移り変わったのではないでしょうか。