昔の仕事着
                   
 私たちが子どもの頃(昭和の初め)は、シャツなどというものはありませんでした。ですから、夏場は山(田畑のこと)着物と呼ぶ腰までの丈の短い着物にモモヒキという服装で田畑仕事をしました。春や秋の涼しいときにはネル(フランネル)。庶民が胴着にして着用した粗末 な防寒衣。江戸時代には多く木綿を用い,これに厚く綿を入れて,上から綿が動かぬよう に刺してとじつけたものもあった)と呼ぶ起毛のある温かい生地で作ったシャツの上に山着物を着て三尺帯をして作業をしたものでした。
 冬場は木綿で綿を入れて作ったノノコ(布子)、これも丈の短い腰までのものを着用した。女の人もこの山着者とモモヒキを腰巻きの上に着て野良仕事をした。
 仕事着(山着物)は、どこの家にも座敷の北側に1本の棒を横に吊してそこに掛けておきました。作業で汚れたものはタネ(家の裏の池)ですすいで泥などを落として囲炉裏棚などに掛けて乾かしました。

 その頃には、シャボン(石鹸)は幅9p、長さ20pほどのものを買って置いてつかいましたが、もったいないと1ヶ月に何度も使うことはありませんでした。
 着物づくりや繕いは、女の人の仕事でしたが大変な苦労だったと想います。当時は反物を自由に買える家などなく、古い衣服のすり切れたところには、当て布をしたり、足りないところは端布で足して作るので沢山の布きれを縫い合わせた着物となりました。このような着物を「33端−サンジュウサッパ」と呼び、これを着ると長生きできるという俗信がありました。
 昔は乳幼児の死亡率が高かったので、病弱な幼児にはわざわざ33切れの布を集めて作った着物を着せることもありました。
 秋の刈り入れから屋内の仕事まで、この服装ですので首まわりなどから藁ゴミなどが侵入するためさぞかし気持ちが悪かったろうと思います。
 冬ともなれば、このヤマノノコ(山布子)で、藁仕事し、雪堀時には回し蓑(ヒロロミノ)を着て朝から晩までコスキ(当時はスコップは普及していない)で屋根から軒下の雪堀に精を出していた姿を憶えています。
 そして、夜になると薪で沸かしたお風呂ににはいるのが何よりの楽しみでした。私も父や祖父と一緒に入り、時々釜の部分に触り熱かったことなど忘れられません。
 風呂から上がると夕食でした。家族全員が車座になり真ん中にご飯の鍋、お汁の鍋を置いてそろって食べたものでした。食後は父は囲炉裏の方に足を伸ばして腹ばいになり何十年も書き続けている日記帳つけていました。
 祖母や母はコタツに入りカラムシの糸を紡いだり、着物の繕い物をしていました。ランプの明かりの中で囲炉裏の火がぱちぱちと音を立ててもえている、このひとときが一日中で子どもにとって最も心の満たされる時間でした。
 以前、長野から来た写真家が昔の仕事着で野良仕事をしている人を見かけないと残念がっていたことがありました。
 昔と比べよう無く便利な生活の今でも、時々、あの頃の生活を無性に懐かしく想うことがあります。

      (田辺雄司 居谷在住)