恐れ乍ら書付を以て御注進申上げ候   (田辺重順家文書)
 
   恐れ乍ら書付をもって御注進申し候
 先、二十四日夜亥の刻大地震につき当村
 端郷大野と申す所、田地長さ十町余の処通りに
 幅三・四尺も割目相立、それより同所百姓居
 屋敷内に相掛り十二軒程住居難しく
 追々、家作取払い候外御座無く当惑至極
 存じ奉り候、右の外当村田地のうち所々右同様
 割目相立ち場所により三・四尺程も高
 低等も出来、手入れ仕るも用水保ち難き
 体に相見江申し候に付きこの段恐れ乍ら御書き付け
 をもって御注進申し上げ奉り候以上
          刈羽郡石黒村
 未三月晦日       百姓代 助九郎
             組頭  卯左衛門
             庄屋  重左衛門
  御代官所
 右御注進申上げ候に付き奥印仕り差し上げ申し候
                   以上
           大肝煎  山田禎介

                         備   考
 村の古老が伝え聞いた話では、弘化4年(1847)の善光寺地震による大野集落の被害は甚大であったという。
 被害を受けた13戸の人家のあった場所は、屋号「長吉」の南前方(→集落図大野参照)であったと聞く。これらの被災した家々のすべてが移転せざるを得ない状況となった。
 その時、現在の屋号「庄見」の家は、屋号「山下」の屋敷の下方に移転したが、その後(1890年頃)、大規模な地滑りが発生して現在の場所に更に移転をせざるを得なかったと聞く。同じく、この地すべりで被害を受けた屋号「源蔵」という家は北海道に移転したという。
 大野集落は石黒で唯一、平らな地形にあり一見、安定した形状であるが、実際は地盤は軟弱で地震や地すべりの被害を受けやすい所である。
 もともと、石黒地区のほとんどは地すべり地帯に指定されているが、大野集落は軟弱な地盤の高台に集落や作場があるため住宅や作場の被害が多かったのであろう。
 下石黒と大野の作場のある地名下原(しもっぱら)は、特に細かに分けた棚田があったことで知られている。毎年のように、地盤が動く度に一枚の田を小さく分割して応急的な修復を繰り返した結果であった。小さい方が地盤のずれを修復するに簡単であったからだ。10aが100枚以上に分割されていた場所も珍しくなかった伝えられる。
 筆者も子どもの頃に、親子地蔵の後方の東斜面に非常に小さな田(耕作者下石黒)が沢山あった様子を見た記憶がある。
 個人で重機を所有し、石黒でも一枚当たり、20a、30aの平場並の田も珍しくない現在では信じがたく、想像もできない光景である。
 まさに、筆者(76)などは、正に千枚田と呼ぶべき光景を自分の目で見て記憶している最後の世代であろう。(2014.12.6記)

              情報提供 大橋輝雄 (大野在住)
                  
 (文責・大橋寿一郎  聞き取り加筆中)

                              

             読み下し文責 大橋寿一郎