明治5年-刈羽地岡野町学校之規則郡  高柳事務所所蔵  用語の手引き
   


〇五年→明治5年
                   刈  羽  郡
                           学  校  の  規  則
                岡  野  町
 
  師家


束修


〇百疋→金100疋→銭100文→青銅100疋

学僕

歯徳

佗出→他出ではなかろうか


手簡

〇最→
尤も


 
  
 岡野町
 学校の規則

一学校へ入学の節、師家へ
 束修料、金百疋
  但し学校へ止宿の入学生は
  その師、別に塾長へ金二十五疋
  学僕へ青銅五百
    但し退塾の節これに準ず
一学校座席の義は暫く
 貴賎を論ぜずその新旧を以って
 次席となす
  但しその歯徳を以って席順する
  こと或いはこれあり
一学生、他出の節出入りごとに必ず
 塾長へ告ぐべし、塾長より
 師家へ達し、師家よりその沙汰
 これ有るまで、差し控えと申すべし
一学生、下宿の義日数七日を以って
 限りとなす、もっとも父兄の手簡、または
 老輩の者より、塾長までその儀
 申し入るべし
   












下宿→寄宿舎より自宅等に帰ることか。


〇夜行→夜の外出




   但し下宿の義、自己の出願においては
  決して許さず且つ七日に及び帰宿
  致し兼ねる次第これある節、その儀
  塾長へ申し入るべき事。(「一先ず退塾」)の文字が抹消)
 平生、なかんづく夜行を禁止す、若し
 やむをえぬ事これある節はその儀
 塾長へ申し届けべく事。

 学校より借用書籍の義
 出納ごとに必ず塾長へ告ぐへし。
  但したとえ塾長不在の節たるとも
  自己を以って取り計らうことを許さず
一 書籍の義出納の節、塾長において記録致し留め置き申すべき事
一 毎月二十五日、各月奉の義
 塾長へ差し出すべし。
  ※次四行はバツ印で抹消。
 右七箇条
   岡野町
     学校
 
〇扶持米→自分が食べる分の米


菜料


〇五百孔→
小百文の意味か

〇兼帯塾長→
上記のとおり素読師を塾長が兼て受け持つこと。


〇素読師→
素読の担当教師


〇素読助勤→
素読師の助師


〇諸生→
学生、生徒


〇時宜→
適当な時

 
 一、扶持米 熟生一人分
    一斗五升也
    この金一分三朱と
         五百孔(?)
      一分一朱
         二百八十文
    但し十俵に改め
     七俵相場の割り定価として
 一、菜料 三分也 同上
 二口
  〆て金一両三朱 一ケ月分
      五百孔也
    内、金二朱二百二十文引き
 右
 年に
 金十四両三分一朱
     三百七十孔也
  内二分四朱
      三百七十文引き
 右の通り
  席順
 一、師家 一、素読師
       但し兼帯塾長
 一、素読助勤  一、諸生
  但し素読助勤の義定数
  これなくその節の時宜申しつくべし
  尤も無給にてこれ有るべく也
 一、月奉 金一両三朱也
 
   



申の刻→午後3時~5時頃


〇犬の刻→
午後7時~9時頃


小学

壬申→明治5年








 
   学校日課
 一、毎朝、   素読、 対読
 一、毎日、     勤学
   但し申の刻以って期限となす
 一、毎夜、     勤学
   但し戌の刻を以って期限となす
   (※一行抹消)

 一、毎夜  小学聴講
 一、一六日   休学
   但し村中休事の日これに同じ
 以上

 壬申
  八月
   












〇学校掛り→学校費用

〇奉の意味→
俸給の意味ではないか。二人口は二人の師家分ということか


役金





学僕

 
  学校掛りの規則
 月給  二人口奉三斗
     この金 三歩二朱と            
           一貫文
 役金 一円二方(?)
 金〆て 二両一分二朱
         一貫文也
 右 師家への分
     一人口奉一斗五升
 同    この金一分三朱
          六百文
 月給  世話役
  金二分 
    (※二行抹消) 
 右 兼帯塾長へ
      の分
 同  一人口奉同上
    この金同上
      一方半
 合〆て 金三分一朱
        五百文也
 右学僕へ
     の分
 

    
   



















下婢


〇惣計→
総計



  
 一同  一人口奉同上
      この金同上
      同一分
 合〆て 金二分三朱
        五百文也
 右 下婢へ
    の分
 総計
  月に金五両一分一朱也
  年に金六十三両三分一朱
      三百文也
 但し
  米相場の義
  十両に付き
     七俵の割り
 右
  年に
  金六十三両三分一朱
      三百文也
   内 学僕手当の義
    金十両一分一朱
      三百七十五文
           引き
 残金五十三両一分三朱
     五百吾十文
   



















〇成算→清算であろう


〇飯米→食べる分の米


〇炭薪→たんしん→薪炭


〇油燭→照明用の油

 
 毎月成(清)算致すべく條
          飯米
          炭薪
          飲食
          筆紙
          油燭
         諸雑費

 右六箇条

 以上
            刈羽郡岡野町学校之規則」解読メモ

① 「壬申 八月 」と4頁の最終行に見られることから、明治5年8月3日の学制発布直後に作られた文書であることがわかる。

② 「小学教則」は翌月の9月の公布であるが、この「岡野町校之規則」が作られたのは1ケ月前の8月である。したがって小学教則の内容は反映されていないことになる。

③ 「岡野町校之規則」の内容は、校則及び経費についての記述が主で指導内容については殆ど見られない。わずかに、教育日課の項に「素読、対読」「朝講釈」、教科書であろう「小学」などが見れる程度である。

④ それにしても、運営経費等の克明な記載内容には驚く。
(学制施行以前に西照寺住職松谷瑞観や岡野町村治郎左衛門、門出では庄屋矢代惣勘などが手習い所を開いていたとの記録が見られる。また、向学心旺盛の者は南条の藍沢南城塾で指導を受けていたとのこと)

⑤ 高柳町史によれば、明治5年8月14日の日付で柏崎県御役所宛てに出された文書には「・・・・評議の上、岡野町の儀は区内中央にて往辺村々より順路宜しきに付き同村(※岡野町)に小学校相立度、教師の儀は勢州三重県貫属長橋和吉と申す者、相招き度・・・・」とある。差出人は、山室、大沢、岡田、岡野町、高尾、漆島、荻ノ島、門出、栃ケ原、山中、の10ケ村惣代村山吉次とある。
しかし、翌6年の開校は教師の長橋和吉の病死により中断となり、1年遅れ明治7年に開校となった。その届書によれば、岡野町と門出、山室の3ケ所に分校を開設する旨の届書を新潟県令宛てに提出している。
(明治5年に出された10ケ村に1校の開設案は、通学上に無理がることは明らかである)
⑥ こうして、明治7年1月には岡野町校が開設され、10月には門出分校が、同時に岡田、塩沢、山中、栃ケ原、高尾の村々にも出張校(付属)が開設されたものとされている。

※石黒校の開設については、閉校記念誌によれば、明治6年に庄屋物置を仮校舎にして女谷校付属校として開設したとある。
しかし、柏崎市史によれば、女谷村の鵜川校も明治7年観音寺を借りて開設とある。
鵜川校即ち女谷校であることはまちがいないであろうから、石黒校開設は明治7年以降と考えるのが順当であろう。(今後鵜川村文書で確認してみたい)
 
 
 読み下し・用語の手引き・メモ文責 大橋寿一郎