差し上げ申す一札の事  用語の手引
  注進


庄屋


長百勝


御飢


一円


本家


五人組 




天保8年


読み下し文○は伏せ字
 


  差し上げ申す一札の事
 この度 私(我?)女房○○心得違い致し
 廣右衛門かぼちゃ一つ盗み取り友左衛門に
 見つけられ注進致され庄屋長百姓□□
 御飢えの為の處 ○○の心得違一円申し訳御座なく候
 これに依り御請けの通りさの一人相払い厳
 しく申しつけられ承知畏れ入り奉り候 早速相払い申すべく
 勿論、不心底より事起し候間 各々様方
 おうらみ申し間敷 これに依り一札差し上げ候
 處くだんのごとし

         山中村
          ○○の□ ○○門
   天保八酉八月十九日 本家   幸衛門
          五人組  □□□
           〃   □□
           〃   □□□□
           〃   □□□□

      村お役人中
l
 
 ●読解メモ
本サイトの近世歴史年表を見ると
 天保4年 〇天保の飢饉、洪水と冷害で各地で一揆打ちこわし頻発。
山中村、不熟安石代願いを出す。
栃ケ原村、上納延期願いを出す。
 天保5年 漆島荻ノ島、栃ケ原、門出の4カ村、村囲い米の融通願いを出す。
 天保7年 〇栃ケ原、花坂地すべり約1町歩
〇飢餓救済のため、広済寺20世孝道祖順和尚は施米施薬をなし、遠く石黒村まで慈悲の手を伸ばす。 
 天保8年  〇生田万が柏崎陣屋を襲い自刃(生田万の乱)
 天保9年  〇佐渡一国騒動発生、高田藩と佐渡奉行一揆鎮圧のために渡海。
等の記載がある。
 また、天保10年には、水害や地滑りによる農地や屋敷の被害についての「小損地御改書上帳(石黒村)」が見られる。
 そもそも、天保は初年より天候不順であり、特に4~6年と不作が続き、翌7~8年にかけては稀に見る全国的な大凶作となった。人々は山菜を食べつくし、藁まで食べる始末であった。筆者が祖母から子どもの頃の聞いた話では、その藁も食べつくし、東頸城地方のある村では、敷ムシロの果てまで食べたと伝え聞いた、とのことであった。
 天保飢饉は特に奥羽地方では深刻を極め、餓死と栄養不足からの疫病死者の数は20~30万人に及んだと伝えられる。
 私たちの郷土柏崎での生田万の乱の史実が、今にその時の惨状を伝えている。
 また、本古文書の、高がカボチャ1個盗み取ったことで、村中から糾弾されるという騒動も、当時の状況の一端を物語っているのではなかろうか。
 読み下し・用語解説・読解メモ文責 大橋寿一郎