「百姓往来」読後の感想
  石黒村寄合の矢沢重徳家文書の中の「百姓往来」を自分なりに通読してみた。大分の時間を費やしたが、古文書の読解力の未熟な自分には正確に内容を読み取ることは出来なかったことは承知している。
 ところで、「百姓」と「往来」の文字の組み合わせは釈然としないが、調べてみると「往来」という言葉の由来は平安時代の公家の「往復書簡集」の文例集にあるといわれている。つまり、往来の元の意味は往復にあったらしい。
 さて、百姓往来は、「往来物」と呼ばれるこれらの書物の一つで江戸後期に刊行されたものであるが、著者の名前は不詳といわれている。(国史大辞典によれば1766年に江戸の鱗形屋孫兵衛により上梓されたものが最古のもの)
 
 
                 (大橋一成家文書)
 内容は、30頁余にわたって、農機具に始まり、新田開発と検地、水損旱損などの手当、検見・年貢納め、肥料、巡見の際の心得、荷物の貫目、家屋の造作、機織り具、農家の常食、農家の副業、牛馬の種類、名所旧跡の観方、農民としての生活の心得について記されている。
 今日、こうして読んでみると「百姓往来」は、農民の使う言語や文章の教科書であったとともに、身分制社会における被支配者の大多数であった百姓に己の身分を弁えた生き方について説いた書物のようにも思われる。
 実に、こうした往来物の種類は近世を通して寺子屋で独自に作られたものなどを合わせると7000種類に及ぶといわれ、これらの普及が近世における我が国の識字率を世界の中で突出して高めた原動力となったことは明らかであろう。
 
※資料→その他の往来物
 
.ちなみに、私が初めて「百姓往来」に出会ったのは、60年余り前の中学生のころである。生家の土蔵の中の木箱に古文書や明治、大正時代の教科書などが詰めてあったが、その中に百姓往来があった。土蔵の小窓の薄明かりをもとに見たページの上段に描かれた参照の絵も、ぼんやりと記憶に残っている。また、内容は読む気もなかったのだろうが、文字面を眺めて「百姓往来」の「往来」という言葉に一種の違和感を感じたことを憶えている。(その由来を知る先刻までそうであったが・・・)。
 特に貴重な古文書などはなかったと思われるが、これらのすべてを、40年前、離村したときに捨てて来たことが今にして残念に思われて仕方ない。

○追記
 昨日(2012.12.10)に柏崎図書館で所蔵の古文書資料から「百姓往来」を探してもらったところ一点だけあったので見せてもらった。しかし、それは「百性
(※原文のまま)往来 全」という題名であるが、内容は一般に見られる「百姓往来」に比べより詳細に記されたものであった。
 いわば、上級向けの内容であり、畑についての箇所には「菜種」に始まり、「麻、苧」から「自然薯」の果てまで70余種の作物の名前が見られる。また、山林の箇所でも「梅、杏子」から始まり「桑の葉」まで30種もある。
 さらに、興味を覚えたのは本の扉に書かれた「百性往来序」の内容であった。
 そこには、
「この書何人の作という事知らざりし、古き反古のうちに得たり、これを読むに農家日用の文字を尽くしぬ、はやく梓(※あずさ-版木)にちりばみ、幼童の便にもなれべしと思うものしかなり」と書かれていた。
 大意は、「この書の作者は分からないが、反古のなかから見つけた。読んでみると農家日用の文字が網羅されている。早く、版木に彫って子どもの学習のために出版したいことしきりである」というほどのものであろうか。
 また、奥付の部分には「浪□ 本細工所」とある。
 おそらくはこのようにして、重版や異版が次々と世に出たものであろう。

 
 (文責-編集会 大橋寿一郎 2012.12.6 写真大橋一成家文書)