石黒村切添絵図 安永3年   田辺重順家文書  
   切添 


安政3年


なげ地


松沢


石仏


石仏の外


東大野


外山


みね坂


十(重)五郎(庄屋)


清五郎(与頭)


伝左衛門(百姓代)


出雲崎御役所
 
 拡大画像←クリック  

              解  説
 この文書の時代背景を自分なりに探ってみたいと思います。
 まず、幕府は四代家綱の頃から容易ならない財政危機に陥り、改善策として全国で新田開発を急速に進めました。領主も農民も新田の年貢免除(※鍬下年季)の制度のもと、積極的に取り組んだことはいうまでもありません。
 ところがその反面、新田開発に力を入れるあまり肝心の従来から耕作してきた田畑の方が疎かになり、収穫量が減少してしまったのです。その上、野山をやたらに開墾し樹木を伐採したため土砂崩れや水害が発生するようになりました。そこで幕府は新田開発奨励策から従来の田畑を効率よく利用する方向(本田主義)に舵を切ったのです。これが寛文6年の頃のことでした。
 しかし、本田主義に切り替えた後も財政悪化は止まらず享保の初めごろには破滅的な財政難に陥っていました。そこで将軍吉宗は再び新田開発を強力に推し進める政策に転換したのでした。その上、今まで禁じていた町人資本による新田開発、つまり町人請負新田を奨励したのです。また、地方を支配していた代官たちに報償を与えて領内に耕地を開発させる方策も講じました。
 ところで、石黒村文書には、翌々年の安永5年に折居村、嶺村と共に提出した「乍恐以書付奉上候」の文書が見られます。内容の要旨には「此段当村々之儀御林新田畑開発難相成候山裾迄田畑場所二而空地無御座候二付・・・・・・」とあります。つまり当時の村人の力では開発可能な場所はないということで、まさにその通りであったと思われます。
 しかるに、その後、鯖石川上流の寄合集落内から長い水路・中之坪用水を完成し、石高40石の新田を開発しています。また、石黒では現在全国棚田百選に選ばれている花坂新田(16町歩ほど)の新田開発を完成しています。これはとりもなおさず柏崎の豪商であった宮川四郎兵衛や山田為四郎の財力あってこそ実現したものでありました。

 ちなみに、本文書「石黒村切添絵図」は、安永3年の山中村文書にも同じものが見られます。各村の新田開発(切添)の状況を報告させたものと思われます。
 
 読み下し・用語の手引・解説文責 大橋寿一郎