女子挺身隊での思い出
                       菅 井 ヤ イ

 私は、尋常小学6年を卒業して高等科を1年行ってやめてしまいました。家に居た時に、石黒村役場より挺身隊として軍事工場に行ってほしい と連絡があり、下石黒から2人行く事になりました。
 2日前に柏崎安定所まで行き身体検査がありました。下石黒から2人、門出の人も2人いました。柏崎管内から48人ほどの人が、昭和19年8月13日に家を出て、名古屋の陸軍造兵所に挺身隊として行きました( 14才の時でした )。
当時の石黒村

 入る時は、旋盤工として入ったのですが、あまり小さいので 仕上げの仕事の方に回されました。学校の生徒は、学徒動員として大勢集められて仕事をさせられていた様でした。大人の人は機械を使って仕事をしていました。
 昨日まで一緒に仕事をしていた男の人達も次々と召集されて出て行きました。残った人は男の人達は段々と少なくなり女の人が多くなって行きました。
 空襲も段々とひどくなり、買い物に工場の外に出る時には、班長さんより空襲警報が鳴ったら、何を置いても工場の敷地の中まで逃げて帰って来るようにと言われていました( 軍事工場の中で亡くなった時は戦死と見なされる・・・と言われていました )。
 工場も、何回となく空襲に遭い班長さんが私たちを連れて逃げてくださいました。班長さんは、空を見上げてB 2 9 が、編隊を組んで、来たのをみて、早くこっちへ来て 早く はやく。編隊が戻って来る時には今度は 向こうの方にいくんだよ、急いでいそいで等と大きな声をだして私達を連れて逃げ回ってくださいました。焼夷弾がまるで雨の様に降ってくるのでした。私も、あの焼夷弾で死ぬのかと何度も思いました。
 それから其処には居られなくなり 岐阜のほうへ機械と共に疎開をして行きました。岐阜の外れの村に行き、空から見えない様に杉林の中に8畳くらいの小屋をいっぱい建てて、機械や電気を入れて、明日から仕事が出来る様に成ったのが、昭和20年8月14日の事でした。
  
 翌日 仕事に出ると今日は、大事な放送が有るから正午に、ラジオのある所に行って聞きなさいと言われて、近くの民家にラジオがありお願いして聞かせてもらいました。 民家では、ガンギにラジオを出して、皆に聞かせてくださいました。 12時になり、ラジオを聴いても、言っている意味が分からず上司の人に、いま何を言ったのですか、と聞いたら「日本が、戦争に負けたのだ」と言って聞かせてくれました。年上の人達は、皆が分かったのか泣いていました。  
 2〜3日位過ぎた頃に、皆、家に帰るように、と言われ柏崎方面へ来る人達をまとめて北条の人が、安田駅まで連れて来てくれました。          
 そこから岡野町までバスに乗り継いでやっとのことで家まで帰って来たように思います。
 
 1ヶ月位 過ぎた頃、給料を取りに来るようにと、連絡がありましたが、何処に行ったらいいのかも分からず、下石黒の2人は、ほったらかして置きました。
 10月頃になってから、北条の男の人が預かって、あっちこちと探し回って持って来てくださいました。1年以上の給金なので、大金でした。ほんとうに有り難いことでした。
 その夜は、もう遅くなっていたので私の家に、泊まってもらいました。
 そして、御礼に二人の家から米を出し合って1斗の米を持って行ってもらう事にし 私の父が、その米を岡野町まで背負って送って行って来ました。

 あれから、もう65年が過ぎようとしていますね・・・・
今は、毎日を平和に暮らさせて頂いております。もう、決して戦争はしてはならないと心から思っています。
 (上石黒在住)