昭和のはじめの頃の学校の思い出
                          田辺雄司
 私の集落からは石黒の学校まで約1里(約4q)あるので1年生から通学するのは無理なので小学校3年までは分校に通った。分校はすぐ近くなので昼飯は自分の家に帰って食べた。
 春の入学式のときには、本校から校長先生が来て、低学年の我々には分からない話を長々とされたのを記憶している。
 それから、毎日、肩からはすにかけるカバンを買ってもらい通学した。国語の教科書は「サイタ、サイタ、サクラガサイタ」で始まったように憶えている。

 先生につぎの「コイ、コイ、シコロイ」のページに進みましょうと言うと「お前たちは黙っていろ、それは先生が決めることだ。それまでに、サクラのところを見ないで読んだり書いたりできるようにしなければだめだ」とよく叱られたものだ。
 一年生の頃には、ノノコ(綿入れ)のなかに小便を漏らす子もいて、大きな声で泣くので、先生も仕方がないので、家に戻って着替えをしてきなさいというと、その子はは喜んでカバンや本も持って家に帰りそれっきりその日は来ないというようなこともあった。
 当時は、大雪の年が多く4月にはまだ沢山の雪があり寒かった。  それでもだんだん暖かくなり雪も消えるころは学校にもなれてくる。清掃時には江戸水をくみ上げてくれる3年生とともに二階の教室から一階の運動場まで掃除をした。
 掃除が終わと家に帰って、冷たいご飯に冷たいお汁をかけてアサツキの葉を丸めたものをおかずにさらさらと食べるのが何よりも楽しみだった。食べ終わるとランプのホヤ磨きと家の中の掃除をしてから大急ぎで友達の家に遊びに行った。そして、暗くなるまで汗まみれになって遊んだものだ。
 運動会は本校であったので前日にはどんなことをするのかを本校まで行って見てきた。
 運動会は5月27日に行われたが、あとで聞いたことだがこの日は日露戦争に勝った記念日だとのことだった。
 当日は本校の生徒と分校の生徒が集まるので大勢の生徒でにぎやかだった。
 開会式には指揮台の上で校長先生が長い話をしたあと、役場から来た偉い人が2人ともまた長い話をするので、それでくたびれてしまうほどだった。夕方近くに閉会式があ、りまたまた何人かの人が長い話をするので低学年の自分にはたまらなくいやであった。4キロの道をあるいて家に帰ると、普段本校への通学になれていない私たちは本当に疲れてしまった。夕飯も食べす風呂にもはいらず寝てしまったものだ。
 夏休みが終わると二学期がはじまり、修身(現在の道徳)の教科書が配られた。先生は、この本は立派な事が書いてあるので、またいだり、他の本の下に置かないようにと言われ、家に帰ってからも新聞紙に包んでおいたものだった。
 修身の本には、オオカミと少年、木口こへい等があり「木口こへいは鉄砲の弾丸に当たり死んでも口からラッパを離しませんでした」という文章があったと記憶する。修身の本は、やはり自分の生涯では忘れがたい本だった。
 小学3年生までは分校が家のすぐ近くにあるので、分校の先生が毎晩のように風呂もらいに来た。先生がくると祖父は横座にすわらせ自分は客座に座った。余り先生が威張るので大人になっても先生にはならないぞと内心思ったほどであった。
 4年生になると本校に通うようになる。そして6年生が終わると女子のほとんどは高等科へは進まず紡績工場や女中にとして働きに出た。高等科に入ると一カ年に5円のお金を学校に納めるのだったが当時は相当の金であったからだ。
 高等科になると農学校を卒業した先生が農業を教えた。学校の校舎の上に学校の畑がありそこで西瓜や瓜などを栽培したが、できは余りよくなかった。家に帰ってそのことを親に話すと自分たちの方が長く農業しているのだから農業高校でたての先生より作物の栽培が上手なのは当然との話であった。また、当時はまだ化学肥料などはなく、もっぱら人糞に灰を混ぜて使った。
今、思うに高等科の頃の思い出よりも小学校の頃のことがより懐かしく思い出される。