遠足の思い出
                           田辺雄司
 遠足というと、もう何日も前から嬉しくて楽しみにしていました。私たちは小学校3年生まで分校なので、遠足といえば毎年、松代とか蒲生まで片道2里〔約8km〕ほどのところでした。
 その日は買ってもらっ服を着て〔女の子はほとんど着物でした〕靴は朝鮮靴と呼ぶ短靴や藁草履をはいたりして行きました。
 朝早く母親から握り飯の大きなものを2つ作ってもらいました。握り飯は囲炉裏のワタシの上に藁を短く切ったものを並べてその上に乗せてこんがりと焼いて包み紙につかないようにします。それを生紙〔和紙〕に包んで風呂敷に包み転げ出ないように両脇をヒモでしばってもらって背に斜がけに担いで行きました。
 分校は1年から3年までで10人余りでしたが道々賑やかに歩いて行ったものでした。道端に生えているスッカシ〔スイバ〕やスッカンポ〔イタドリ〕など採って食べて、先生に「あんまり食うと腹が痛くなるぞ」、などと注意されながら歩いたものでした。
 松代に着くと店が沢山あるので驚いたものでした。店の前に立って色々な商品を見ていると、店の人が「ねぇら、どっから来た、何しに来たがんだ」などと聞いたものでした。中には生徒は皆で何人かを聞いて一人に飴玉2個ずくれた店もありました。あのときの飴玉のおいしかったことは今も忘れません。先生はただでもらっては申し訳ないとお金を払おうとしましたが店の人は受け取りませんでした。
 昼ごろになると、眺めのよい峠道で遠くの山の景色を眺めながらお握りを食べました。先生は未だ真っ白な遠くの山を指差し「あの山の向こうは東京というところだ。お前たちも大人になったら東京へ行くがんだなぁ」と言った事を覚えています。
 昼食後しばらくそこで遊んでから、空になった風呂敷を頭にまいたり、首にまいたりして賑やかに帰ってきました。家に帰ると、残してきた店でもらった飴玉の一つを才槌で割って弟と妹にくれたことを憶えています。
 4年製になると本校なので大勢で板山、田麦、地蔵峠などによく行きました。
 高等科〔現在の中学〕になると修学旅行がありました。行き先は柏崎で宿屋は柳橋の「ふじ屋旅館」に決まっていました。修学旅行となるとお金もかかるので何人も行かれない人がいました。とくに女の子の多くが行かなかったように記憶しています。
 小遣いも一人2円と決まっていましたが、何を買ってよいやら分からないので2円でも余りました。今でも忘れないのは、アイスキャンデーを3本買ってポケットにいれて宿屋まで帰ったところすっかり解けてしまって先生に怒られたり笑われたりしたことです。現在の子どもは歩きながら物を食べることを平気でしますが、当時〔昭和十年代〕は、クワンジン〔乞食〕のすることとされ誰も決してしないことでした。翌日の夕方家に帰ってきましたが、お土産は小さな瓶につめた海の水でした。