ひとらごと   DATE20120512

                 隣の三尺

                              大橋末治

 私が石黒村にいた幼いころ親や老人から聞き、その後の自分の成長過程で大いに役立った言葉がある。それは「隣の3尺」である。「隣の3尺」は、北陸や東北地方で親が子供の躾として使っている昔からの言葉である。“隣”は向う三軒両隣のことで、“3尺”は屋外掃除で使う竹ぼうきの長さ、約3(=約90cm)、からきていると聞いた。「隣の3尺」は、雪国ならではの言葉で、北陸や東北地方の生まれの方は、子どもの頃に親から幾度となく聞いて育った言葉だと思う。

 

玄関先の掃除は、いつも子供の仕事である。冬の木枯らしの吹く寒い朝など子供にとっては、辛いひと時でもある。少しでも自分の作業量を減らし、早く終わろうとするのが常である。このような時、親が子供に言い聞かせる言葉がこの「隣の3尺」である。自分の敷地だけでなく、隣の敷地3尺まで踏み込んで掃除しなさい。こうすることでお隣さんとの人間関係は見違えるほど良くなる。踏み込む量は3尺であり、1尺でも6尺でもいけない。3尺に意味がある。人は誰でも他人に入ってきて欲しくないところをもっている。その一線を越えては逆効果になる。「小さな親切、大きなおせっかい」に変わるからである。子どもの頃、雪が積もった早朝、カンジキを履いて「道付け(カンジキで雪を踏み固め、隣同志の家まで道を造ること)」をする時、私は早起きが出来ず、ほとんど施しを受ける方であったが良くこの美しき光景に出合い感謝していた。

 

その後、石黒村を離れてからも、私は「常日頃の自分の視点のおきどころ」とする上で、「隣の3尺」という言葉を大切にしたいと思ってきた。これは古い言葉で、今は死語化していて若い人たちには受け入れ難いかも知れない。しかし、簡単な表現でありながら、とても意味深く、受ける人の心のありようでも大きく変化し、応用できる言葉である。そこで、私は「隣の3尺」をいろいろな場面で紹介し、使わせてもらってきた。特に、企業を退職し還暦を過ぎてからは、学生諸君と接触する機会があり、そこでも大いに活用させてもらった。「隣の3尺」、これは私がことあるごとに学生に言っていたため、私のあだ名も「隣の3尺」と言われてしまった。その上、私の研究室に書道の高段を有する女子学生がいて、立派な額まで作ってくれた。やがて「隣の3尺」は「研究室訓」として室の壁に貼られた。そこで、お説教じみたお話で恐縮ですが、「隣の3尺」に関する23の活用例を紹介させて頂きます。年寄りの「ひとらごと」として、読み流して頂ければ幸いである。

 

その(1) 新入生に対して、「先ず、友達を作る上で自分から一歩(三尺」踏み込んで挨拶をして欲しい。相手から来るのをじっと待っていては始まらない。「隣の3尺」を日々心がけることで4年後の卒業時には、必ず大勢の素晴しい友達に囲まれているだろう」と。

 

 その(2) 授業では、「製品の計画や設計時に自分の担当範囲だけでなく、相手が担当する関連部門との“境界”(作業の取り合いのことでインターフエースという)を一歩踏み込んでしっかり調整しておかないと後で予想も出来ない大きな障害に直面することになる。但し、踏み込む量は3尺に留めること。さもないと、相手のプライドを傷つけることになる。この境界調整を事前に一歩踏み込んでやっておくことで、その後の作業が円滑に、かつ迅速に展開する。人間関係も同様上手くいく。自分も現役時代に新製品を客先に納入したが設置場所までの搬入経路の事前調整が不十分で、部屋の窓を破って搬入したことがある。幸い大事に至らず難を逃れたが、一般には大きな恥をかくだけでなく、発生する費用の工面、納期の遅れなどへの対応を迫られ、強いては社の信用を落とすことになる」と。

 

 その(3) 卒業生に対して、「いくら優秀な人でも自分ひとりの力には限度があり周りの人からの知識吸収は必須である。幸いなことに、何処の職場でも周りには人生経験豊かな達人が大勢いる。よって、このような方々との素晴しい出会いは沢山ある。しかし、学生時代と異なり受動形式主体の知識吸収では、その実りは少ない。自らの一歩の踏み出しが大切である。ただし、受ける側がそのレベルにないと、せっかくのチャンスも素通りしてしまう。自分からのちょっとした一歩の踏み出しとせっかくのチャンスを逃さない日頃からの自分のレベルアップが重要ある。レベルアップも三尺ずつ進むのが良い。あれもこれもと大きく構えるよりも、三尺ずつ進む方が結果として、早く確実に目標に近づく場合が多いように思われる。また、自分の身の丈を大きく踏み越える初期からの大目標は、返って自分を傷つけてしまう例が多い。 「自分ひとりでも生きていく力」にこだわらず「自分を活かす力」*1を身に付けて欲しい。「自分を活かす力」を付けるには、「隣の3尺」のこころを日頃から心得えておくことが有効であろう」と。

 

「自分を活かす力」*1

最近、若い人たちに対し「“自分ひとりで生きていく力”を身に付けなければならない」と言う評論家や指導者が多い。これは「ひとりで生きる」ということに力が入り過ぎ、他から見ると孤独感、悲壮感さえ感じられる。これではあらゆる可能性を秘めている一般社会では窮屈過ぎる。従って、私は「自分ひとりで生きていく力」は「自分を活かす力」にすべき、と学生に伝えた。人は「人」という文字のごとく、社会生活上は一生涯、お互いに寄り添い助け合いながら生きていくのである。砂漠の中の一本の木ではなく、森の中の木であれば良い。砂漠の中の一本の木は、大雨や台風の襲来があるとほとんど耐えられない。森の中の木は、若い時は嵐があれば大木に頼り、伸び盛りはお互いに太陽を求め競い合い、成熟後は大雨や台風など何があっても若年層の木を助け泰然としている。しかも地に根を張り森全体を守っている。老いては土に返り、森の再生に寄与している。「数々の素晴しい出会いが待っている社会では、森の中の木々でありたい」と。

2011.3.11東日本大震災が発生した。約1ヶ月後の423日、岩手県陸前高田市の「奇跡の一本松」がTVで紹介された。大津波が引いた後、7万本あった木々の中、たった1本のみ奇跡的に残ったと言う。関係者間で相談の結果、一本では生きられないと周囲に沢山の木々を植え「奇跡の一本松」の再起を図り確かな成長を期すことになったと言う。「自分を活かす力」がここでも活かされていることに人ごとでない何かを感じている。

以上