ひとらごと   DATE20090205

          昭和をふり返って(後編)
                         田辺雄司
 8月15日の敗戦からまもなく、進駐軍が続々と日本にやってきた。当時は非常な食糧難で大都市では餓死する人も出るくらいだったが、アメリカからの食糧援助もあり少しずつではあり食糧事情も改善され昭和30年頃には人心も落ち着いてきた。
 その後、食糧増産を目ざして私たちも米作りに取り組んできた。米価も年々値上がりして村人達は喜んでいたが、昭和46年の夏、想像もしない情報が村人を驚かせた。
 それは、当時全国的に進んでいた地方の過疎対策の一つであった極小集落の移転統合政策であった。私たちの居谷集落も総戸数18という小さな集落であったので、高柳町では、後谷、中後集落とともにその指定を受けたのだ。
 その裏には昭和45年に高柳町が全国過疎地域振興計画指定町となり町でその具体策である「高柳町過疎振興実施計画」を立てて20戸未満の小集落の集団移転を決めたのだった。町としては一括移転、それも町内、具体的には岡野町に集合住宅を建てて移転させるという計画であった。(現在も長屋式の集合住宅が残っている)しかし、実際には町外や県外に移転する人が多くその集合住宅はほとんど利用されることなかった。
 翌年の46年には中後集落、後谷集落が廃村となった。更にその翌年には白倉集落が廃村となった。
 しかし、一方、過疎地域振興指定により高柳町には莫大な補助金が入り、それを使って町内に克雪センターなど沢山の施設設備がなされた。
 居谷集落は、それまでは離村する者はほとんどなかったが、この法律によって、昭和49年までにはすべて離村するようにとの指示を受けたため、その頃からボツボツと町外や県外に移転する家が出てきた。
 結局は残った戸数は5、6戸となったが、その後、地すべり地帯としての国の指定を受け20年あまりに渡り土木工事が行われ私たちも災害から守られるとともに土木工事の仕事にもありつけた。そのうえ、国道353号線の小岩トンネル開通により、居谷地内の道路の車の通行も増えて山菜採りの春や海水浴、釣りなどの夏には車の通行も多くなってきた。
 私は、現在、新聞やテレビなどで田舎へ住もう、農村を見直そうなどといういう記事や番組を見るたびに集団移転の指示を受けた当時のことを思わずにはいられない。半ば、強制的な指示を受けてやむなく村を離れた人々はどのような気持ちで生まれ住み慣れた故郷を後にしたか、その心中は察するに余りあると言わざるを得ない。
 初めから離村する気の全くなかった私は現在まで農業と土木工事の仕事にでて居谷に住んできた。時には、そのうちいつか、また都会を離れて人が戻ってくる時代も来るのではないかと想っていたが現在ではわずか3軒きりの集落となってしまった。
 戦争と敗戦そして復興、更に復興の影の部分である農村の過疎という激動の昭和時代を生きて現在は80歳を越えた。