昭和をふりかえって(前編)
                             田辺雄司
 私は、東頸城郡と刈羽郡の境界の集落に昭和3年に生まれた。当時の居谷は戸数18戸で小集落であったが何不自由なく、何事も村中で協力してやっていた。
 集落には分校があり夏季は3年生まで、冬季は6年生まで通学していた。小学校の入学が近づくと上石黒にあった本校まで母に連れられて身体検査を受けに行った。1メートルを越える4qもある残雪の坂道を新しいノノコ(綿入れ着物)を着て1時間以上かけて歩いた。学校につくと身体検査と注射をしてから、親子で入学の心得についての話を聞いてから帰宅した。
 4月になると分校で入学式があった。初めて教科書をもらって先生の話を聞いて家に帰って教科書を開いたときのインクの香りを今でも憶えている。
 だんだん学校にもなれ数人の同級生といろいろな遊びをして楽しく毎日を過ごした。時々、本校に行くことがあったが、300人近い数の生徒がいたのでとても驚いて圧倒される気持ちだった。
 1年生の頃からの私の家の手伝いは石油ランプのホヤ磨きであった。ランプのホヤ磨きは手の小さな子どもの仕事とどこの家でもきまっていた。学校から帰るとその仕事が終わらないと遊びに出ることは出来なかった。
 分校での生活は、春の遠足、田植え休み、夏休み、稲刈り休み、冬になれば正月と冬休みがあり、分校生活は我が家同然で楽しかった。
 4年生になると、新しいリュックサックや雨具、靴などを買ってもらって本校に通った。4月いっぱいは残雪のザクザクした雪道を歩いて通った。慣れないうちは家に帰ると腹はへるやくたびれるやらで、冷たいご飯に冷たいお汁をかけて2、3杯食べるとコタツに入りそのまま夜まで寝ることもあった。
 その頃は、日中戦争が始まった頃で、村の若い人達は次々と村中の人達に送られて戦地へ行った。学校では、先生が支那(中国)という国はずるい国で日本の領地をぶんどろうとして戦争が始まったと話してくれた。いわゆる支那事変で、ここから太平洋戦争が始まった。そして、日本は中国の都市を次々に占領していった。
 私にとってこの頃(昭和15年)6年生の時に皇紀2600年記念郡学童体錬大会が柏崎市で行われ、走り幅跳びの選手として出場したことは、学校時代の忘れられない思い出となった。
 その後、戦争もだんだん拡大して昭和16年には大国の米英にも戦争をしかけ、日本中の若者達はわずか2銭の葉書一枚で次々に召集されて戦地に向かった。しかし、米英は戦力においても物量においても勝てる相手ではなかった。戦局は、暗号を解読され手の内を読まれたミッドウェー海戦(昭和17年)のころから悪くなり、ついに昭和20年8月に広島、長崎に原子爆弾投下により敗戦となった。