ひとらごと   DATE20080928

             放棄田

 9月下旬、本HPへの寄稿文の内容確認のため、居谷の田辺雄司さんに電話をすると、「今日は寒いので朝からコタツでテレビを見ています」との挨拶だった。こちらも「セーター着用でパソコンに向かっています」と挨拶をした。
「暑さ寒さも彼岸まで」とは子どもの頃からよく聞かされた言葉であるが、こうまで説得力をもってこの言葉が脳裏に甦る年もめずらしいだろう。二十日前後は真夏を想わせる暑さで我が家では扇風機が回っていた。それが、ほんの2、3日の間に、コタツの出番と相成るとは嘘のような話である。「陽気というもんは、ほんに、おっかねぇようなもんだのう」という言葉も子どもの頃から耳にしたものだが、まさにそのとおりであろう。
 さて、田辺さんの寄稿文の話にもどる。「新田づくりと畔しめ・畔塗り」を読むと、昔の田堀りの苦労がいかばかりのものであったかが分かる。
 1年目に、田堀鍬で土をかいてモッコを使って土を運び田場所をつくり、畔形に土をに盛っておき冬の雪によって押し固める。そして、翌年は畔形に盛った土を40kgもあるアゼシメで叩いてしめて畔をつくる。それから、新田の底面を鍬で耕し水を流し込んで、土を詰めた土俵(つちだわら)を7、8人で引いて田の土を泥状にする。更に鍬で耕して、また、土俵を引きまわす。この作業を一日中続ける。せいぜい3〜5アールの田であったが一枚の田堀りを終えるまでには7、8人で2年に渡り40日もかかったものだという。人手を頼らずに掘るとなると完成までには数年を要したものであろう。
 この寄稿文で田堀りの苦労を知ってからは、今まで見過ごしていた放棄田が目にとまるようになった。とくにススキの穂が出る今頃は、遠目にもくっきりと田の跡が現れる。(下写真)
荒らし田〔放棄田〕

 今は荒れ果てたこれだけの田を掘るに我々の祖先はどれだけの労力をしたのであろうか。ただ、ひたすらに、子々孫々の食の確保を願っての労働であったであろう。
 しかし、敗戦後の復興から高度成長期への時代の流れは農村の若い労働力を奪い去り、過疎化を進めた。
 村に残った少数の人々は、条件のよい田を集めてほ場整備と機械化を進め頑張って耕作してきた。ちなみに現在の板畑集落4軒の米の生産量は高柳町全体の2割に達すると聞く。しかし、それも農業従事者の高齢化により限界に達している。石黒における農業従事者の平均年齢は67歳を超えている事実をふまえて考えるなら、早晩、石黒の農業は大きな壁に阻まれることになる。
 先日、上石黒のオオヌゲ地内を久しぶりに訪れてその変わり様に息を飲む思いであった。二年前の秋、今は亡き耕作者のSさんと畔で眺めた黄金色の美しい稲田は、繁茂した雑草で畔の見分けもつかないほどに姿を変えている。このままだと、あと2、3年でススキが繁茂し茫々たる原野に変わるであろう。
災害前のオオヌゲの棚田

 もちろん、石黒の棚田のすべてがこの様な運命をたどるとは思わないが、定まった後継者のいない農家が多い現状では暗い光景が脳裏をよぎるのも仕方ない。
 しかし、一方、世界的な食料不足が現実のものとなり、食料を海外に依存する今までの国の政策は否応なく見直さねばならない時代に入っているようにも思われる。この現実が将来、農業政策の転換につながり、ひいては、石黒の休耕田や放棄田が命を取り戻す時代が到来すると考えるのは楽観的な望みに過ぎないだろうか。